2006年度 民法1B 第2回中間試験


学籍番号 氏名
   

2006年7月3日

明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂


枠内に書かれた事例をよく読み,それぞれの問題に答えなさい。解答に際しては,結論と理由(根拠条文)とを明確に示すこと。

 新潟地判昭46・9・29下民集22巻9・10号別冊1頁,判時642号96頁,判タ267号99頁は,因果関係の証明について,以下のような判断を下している。
 因果関係論で問題となる点は,通常の場合,1被害疾患の特性とその原因(病因)物質,2原因物質が被害者に到達する経路(汚染経路),3加害企業における原因物質の排出(生成・排出に至るまでのメカニズム)であると考えられる。
 本件のような化学公害事件においては,被害者に対し自然科学的な解明までを求めることは,不法行為制度の根幹をなしている衡平の見地からして相当ではなく,前記1,2については,その状況証拠の積み重ねにより,関係諸科学との関連においても矛盾なく説明ができれば,法的因果関係の面ではその証明があつたものと解すべきであり,右程度の1,2の立証がなされて,汚染源の追求がいわば企業の門前にまで到達した場合,3については,むしろ企業側において,自己の工場が汚染源になり得ない所以を証明しない限り,その存在を事実上推認され,その結果すべての法的因果関係が立証されたものと解すべきである。

問題1】法律上の推定と事実上の推定は,どこが異なるか。特に,本件の因果関係の立証について,法律上の推定を類推する場合と,事実上の推定を利用する場合とで,どこが異なるか(10点)。

(問題1のねらい)

ある事実が証明されたというためには,「高度の蓋然性」が証明されなければならない,すなわち,裁判官が,ある事実を認定するためには,「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信をもちうる」程度の心証を形成することが必要である(最二判昭和50・10・24民集29巻9号1417頁(東大ルンバール事件))。

このような心証を形成するために,ある現象Aが発生したときは,その原因は非常に高い確率でBによることが多い,というように,経験則上,定型的な事象経過が知られているときに,そのような経験則を利用して,Aが発生したときに,特別の事情がない限り,その原因はBによるものと認定すること,すなわち,Aがあると,その原因としてBが推定されることを「事実上の推定」と呼んでいる。

これに対して,裁判官が経験則等を利用しても,ある事実の存否について,「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信をもちうる」程度の心証を形成することができなかったとき,すなわち,真偽不明(non liquet)になった場合に,その事実があると認定することを許す裁判規範のことを法律上の推定と呼んでいる。

つまり,事実上の推定は,ある事実について,裁判官に高度の蓋然性を伴った心証を形成させるものであるのに対して,法律上の推定は,そのような心証形成ができず,ある事実が真偽不明になった場合に,あたかもその事実があるかのように判断することを許す裁判規範である。

両者のこのような違いが理解できているかどうかをチェックするのが,この問題のねらいである。

(問題1の解答例)

民事訴訟法上,推定には事実上の推定と法律上の推定とがある。裁判官の自由心証主義の1作用として経験則に基づき行われ,証明責任を変動させないものを事実上の推定といい,法規の適用により行われ,証明責任の転換を伴うものを法律上の推定という。

問題2】因果関係の証明に際して,裁判所が,「本件のような化学公害事件においては,被害者に対し自然科学的な解明までを求めることは,不法行為制度の根幹をなしている衡平の見地からして相当ではな〔い〕」としている点は,心証形成の方法として許されるか,立証責任の分配の方法の解釈としては,どうか?

(問題2のねらい)

裁判官が心証を形成するに際しては,真実が何かを純粋に探求すべきであり,当事者が弱者であるから優遇すべきだとか,衡平の見地から一方に有利に心証を形成するということは,自由心証主義に反することになる。

これに反して,真偽不明の場合に,事実があると判断すべきか,ないと判断すべきかという立証責任の分配に関しては,証拠からの距離とか,立証の難易等を考慮して,公平の観点から,判断することは差し支えない。

本件の場合,裁判官が,公平の観点に言及していることから,その問題が,心証形成の問題なのか,それとも,心証形成ができないために,立証責の分配をどうするかと言う問題となっているのか,検討を促そうというのが,この問題のねらいである。

(問題2の解答例)

自由心証主義の一作用として経験則に基づいて行われる事実上の推定の場合には,裁判官は,法律上何らの拘束も設けず,ただ,経験則と論理則にのみ従い,裁判官の自由な判断によって心証を形成すべきである。したがって,当事者が弱者であるから,とか,衡平の見地から,証拠が相手方に比べて劣勢でも心証を形成しても良いということは許されない。

これに反して,国民の裁判を受ける権利を保護するために,自由心証の尽きたところ,すなわち,真偽不明の場合に,法律要件に該当する事実が存在しないかのように(通常の立証責任規定場合),または,法律要件があるかのように(立証責任の転換の場合)判断することを要請される。この場合は,自由心証の形成が不可能な場合なのであるから,裁判官は,真実の発見,衡平の観点,実体法の条文構造等から,どちらに立証責任を負わせるのが妥当であるかを判断することができると解すべきであろう。

【問題3】因果関係の立証に関して,裁判所の見解を立証責任の転換として解釈すべきであるとの見解がある。この場合の根拠は何か。(30点)。

(問題3のねらい)

因果関係の立証の問題に関して,もしも,立証責任の転換を行うべきだとしたら,その根拠は何かを問う問題である。

(問題3の解答例)

裁判所が掲げている衡平の観点は,自由心証主義の場合には利用できず,自由心証主義が尽きた後に,国民の裁判を受ける権利を保護するために存在する立証責任規定,および,その解釈に頼らざるを得ない。この場合の解釈原理は,まさに,衡平の観点である。

本件の場合,裁判所は,「不法行為に基づく損害賠償事件においては,被害者の蒙つた損害の発生と加害行為との因果関係の立証責任は被害者にあるとされているところ,いわゆる公害事件においては,被害者が公害に係る被害とその加害行為との因果関係について,因果の環の一つ一つにつき,逐次自然科学的な解明をすることは,極めて困難な場合が多いと考えられる。特に化学工業に関係する企業の事業活動により排出される化学物質によつて,多数の住民に疾患等を惹起させる公害などでは,その争点のすべてにわたって高度の自然科学上の知識を必須とするものである以上,被害者に右の科学的解明を要求することは,民事裁判による被害者救済の途を全く閉ざす結果になりかねない。」と述べており,因果関係の立証は,「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要」であるとされる基準から言うと,無理であると考えていることは確実である。

そうであるとすると,この問題は,自由心証の範囲で決着できる問題ではなく,衡平の観点が重要となる,立証責任に基づいて判断されるべきである。

問題4】以上の検討を踏まえた上で,裁判所の見解を事実上の推定と解すべきか,立証責任の転換と解すべきか,私見を述べなさい。(30点)。

(問題4のねらい)

以上の検討の成果を踏まえて,自分の意見を自由に述べさせるというのがこの問題のねらいである。

(問題4の解答例)

(1)事実上の推定,間接反証理論を肯定する観点から

化学公害事件等の場合のように,被害者に対し自然科学的な解明までを求めることは,不法行為制度の根幹をなしている衡平の見地からして相当ではない場合には,1.2.の証明に関しては,その状況証拠の積み重ねにより,関係諸科学との関連においても矛盾なく説明ができれば,法的因果関係の面ではその証明があつたものと解すべきである。

これに対して,3.に関しては,汚染源の追求がいわば企業の門前にまで到達した場合,民法186条における占有の継続の推定の場合と同様に,1.加害者からの原因物質排出,2.加害被害者への到達の経路という,因果系列の始点と終点が証明された場合には,2.の加害者の工場内部での原因物質の生成・排出のメカニズムについては,因果系列の継続が法律上推定されると考えるべきである。法律上の推定が認められる場合には,立証責任の転換が生じているのであるから,裁判官は,企業側において,自己の工場が汚染源になり得ない所以(いわゆる因果関係の中断事実)を証明しない限り,すべての法的因果関係が立証されたかのように判断できるものと解すべきである。

(2)立証責任の転換を行うべきだとの観点から

不法行為にもとづく損害賠償請求において,一般に被害者の蒙った損害の発生と加害行為との因果関係の証明責任は被害者にあるとされているが,公害事件などで問題となるのは,@被害疾患の特性とその原因(病因物質),A原因物質が被害者に到達する経路(汚染経路),B加害企業における原因物質の排出(生成・排出のメカニズムの各事実であり,これらの事実がむしろ証明の主題であり,これをめぐって当事者の立証活動は展開される点からいって,これらの事実こそ弁論主義の適用を受ける主要事実とみるべきで,本来これらの各事実について証明責任の分配を考えるべきである。そして,これら3つの事実の証明があったときに(法的)因果関係ありと判断すべきかどうかは,法規上の要件への事実のあてはめの問題として,むしろ法の解釈の問題となる。したがって,「@とAの事実の証明があれば,Bの事実のないこと(汚染源になりえない事実)が積極的に証明されない限り法的因果関係を認定してよい(または認定すべきである)」という考察は,右の意味で,法解釈のひとつのあり方であり,@ABについての利ss表活動以前に類型的に定めうるものである。Bの事実の不存在についての証明を間接反証としてとらえるのは,法の解釈の問題を心証形成の立証過程の問題(因果関係の証明度の問題)としてとらえる誤りを犯しかねない。かくて,間接反証という思考を抽象的な要件事実の証明問題の分配と結びついた形で議論すること(法律要件説の正当化のための道具概念として用いること)は,本来は法解釈の問題であるものを,心証形成の立証過程の問題として自由心証の領域内に埋没せしめる危険があり,問題の所在を曇らせるものとして排斥すべきである。