−裁判員制度における素人と専門家との協働のあり方に学ぶ−
作成:2010年10月1日
明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂
2009年5月21日から実施されている裁判員制度ほど,学校教育における法教育の必要性を明らかにするものはないであろう。重大な刑事事件について,被告人の生死にかかわる判断(死刑から無罪まで)を,全くの素人である国民から任意に選ばれた6人の裁判員が,専門家である3人の裁判官と同等の立場で,評議・評決に加わることになったからである。
法律に関して全く学習をしていない一人の国民が,突如,裁判員の候補者であることの通知を受け,裁判所に出向かなければならなくなった時に陥るであろう「困惑・不安の大きさは,想像に難くない。このような「困惑・不安」を軽減するためにも,義務教育の一環として,学校において法教育を行うべきであることは,もはや,避けることはできないといえよう。
裁判員制度では,裁判員の果たすべき役割は,「事実認定」と「量刑」だけであるから,「法律の知識はなくても,裁判員としての職務は全うできる」といわれている。しかし,事実認定は,法律の条文の要件に即して行われ,必然的に法律の推論(あてはめ)が介在するのであるから,裁判員が職務を全うするためには,法律に関する知識のうち,「法的推論」に関する知識が不可欠となる。
もっとも,このような「法的推論」は,素人離れした特別な推論ではない。それが判決「三段論法」と呼ばれていることからもわかるように,「法的推論」の考え方は,アリストテレスによって理論化された「常識に基づく説得と議論の技術」としての「弁論修辞術(レトリック)」の中の「法廷弁論」[アリストテレス・弁論術T9]として位置づけられている。法律家に特有の思考プロセスとして尊重されている「アイラック(IRAC)」[加賀山・学習法入門(2007)33-41頁]も,レトリックの「配列法(タクシス)」[アリストテレス・弁論術T13-19]を利用したものである。法律学の特色であり,難解とされる「法解釈学」も,レトリックの「修辞法(レクシス)」[アリストテレス・弁論術V1-12]から発展したものであり,レトリックの応用版であるということができる(レトリックの歴史と現代的意義については,[野内良三・レトリック入門(2002)4−27頁]参照)。
このように考えると,裁判員の役割として求められている「常識」とは,「常識に基づく説得と議論の技術」としてのレトリックの考え方そのものであることがわかる。
インターネット上で自らの意見を述べる機会に恵まれている現代社会においては,常識に基づいた「説得と議論の技術」としてのレトリックが重要性を増している。すなわち,情報化社会,特に,インターネット社会においては,第1に,悪徳業者がレトリックを悪用して行う詐欺的な商法から身を守るためも,第2に,異なる意見の人々の間で議論と説得を通じて合意形成に至るためにも,第3に,不当な言いがかりに反論し,不正をとがめるためにも,市民が,正しいレトリックの技術を身につけることが必要となっている。
民主主義を生きる現代市民にとって必要不可欠の上記の課題において,剣や銃等の武器に代わって,言論による説得の技術としてのレトリックが市民の共通の財産となったときに,はじめて,「文は剣よりも強し」という状態が実現できることになる。このような状態を市民が享受できるようにするためには,なるべく早い時期,すなわち,義務教育の段階から,レトリックの教育を始める必要がある。
学校教育の現場を振り返ってみても,暴力に訴えようとする生徒の多くは,自分の意見を言葉によって表現することが苦手であり,「口よりも先に手が出る」という傾向が見られる。したがって,そのような生徒も,学校教育の中で,レトリックの技術を習得し,「言葉による説得」の能力を獲得できれば,「手を出す前に口で言う」という習慣が自然と身につくようになる。
もっとも,長い歴史の中では,レトリックが,相手を「言い負かす」ために,「手段を選ばない詭弁」へと堕したこともあった([ハフト・レトリック流学習法(1998)57-70頁],[香西・論争と詭弁(1999)37−88頁],[野内良三・レトリック入門(2002)6−9頁])。しかし,レトリックの本来の目的は,説得を通じて,「双方の利益の調和,合意の形成,徳の賞賛・悪徳の抑制」を実現することにある。したがって,レトリックが正しく使われた場合には,争っている当事者同士が,ともに満足する結果が得られるのであり,勝者も敗者も生じない(win-win solution)。学校現場において,レトリックの技術と考え方が,問題を平和的に解決する最良の方法として,徹底的に学習されるべき理由は,まさにこの点にある。
法律家の有する専門知識とは,「専門的な法律知識および法的な推論の能力」(司法試験法3条)である。これらの知識は,レトリックの考え方を法的思考に適合するように特化し,洗練したものであることは,すでに述べた。
しかし,ある学問の特化は,必然的に他の部分をそぎ落とすことを意味し,一定の発展を遂げた後は,そぎ落とした部分の欠落が理由となって欠陥を露呈するに至る。それでは,法律学は,レトリックのうちの,何をそぎ落としたのか。そのことを知るためには,アリストテレス以降の発展を考慮した以下のようなレトリックの全体像を見る必要がある([浅野・論証のレトリック(1996)64−45頁の折り込み図],[野内良三・レトリック入門(2002)4−52頁]参照)。
法的推論が利用しているのは,上記のT1Bの法廷弁論,U修辞法,V配列法である。そうすると,法的推論には,第1に,T1A,Cの審議弁論,演示弁論が欠落しており,第2に,T2,3のエートスとパトスに訴える説得立証法が欠落していることがわかる。
これに呼応して,法的推論は,第1に,将来の問題を利害に基づいて論じるのは不得意である。将来に関する差止訴訟に対して裁判所が煮え切らない判断に終始しているのは,このためであり,最近では,「法と経済学」がこの問題に挑戦している。第2に,法的推論は,恐れ,怒り,愛・憎といった人を突き動かす感情を推論に生かすことに成功していない。これらの問題を巧みに取り入れているレトリック学んでいる市民の常識による推論は,法的推論が陥りやすい点を批判し,修正することが期待できる。
裁判員制度において,素人である裁判員が専門家である裁判官と同等の地位を占めることになったことは,今後の社会のあり方を考える上での最大の問題,すなわち,素人と専門家とは,どのように関わっていくべきなのかという問題に対して1つの答えが示されたことを意味する。すなわち,裁判員制度は,素人の意見を参考にしつつ専門家が決定を下すという主義(専門家主権)を採用するのではなく,また,専門家の意見を参考にして素人が決定するという主義(素人主権)を採用するのでもなく,それらを総合して,専門家と素人とが協働して合意を形成すべきであるという主義(協働主義)を採用したことを意味する。
法律家に特化された法律知識に基づく思考方法と市民の常識に基づく思考方法とが,コミュニケーションを経て交錯する過程においてこそ,今までの裁判で見落とされてきた推論の誤りが発見されたり,検察官と裁判官とのなれ合いから生じる冤罪事件に対する改善が進んだりすることが期待できるのである。裁判員制度の画期的な点は,まさに,素人と専門家の協働によってお互いの欠点を克服しようとする点にあるといえよう。
それでは,学校では,どのような法教育を行うべきであろうか。法律の専門家でない小・中・高の教師が,法律に関する健全な常識と法的なものの考え方を教えざるを得ないという事態は,裁判員が,重大な刑事事件の評議・評決に加わらざるを得ないという事態とよく似ている。「法教育を担当せよ」と命じられたになった教師は,「裁判所の評議に加われ」と命じられた裁判員と同様の「困惑・不安」に陥ることになる。このような「困惑・不安」を解消するためには,法律を学んだことのある法学部出身の教師と,レトリック(哲学,語学,論理学等)を学んだことのある教師とが協働して法教育の教材作りを始めるところから出発すべきである。
素人である裁判員に要求されるのは,具体的な事実をルールに則って解決するという道筋を理解することであるが,その際に,同じ事実から反対の結論を導くルールが存在することを認識することが重要である。健全な常識には,常に反論が用意されている。たとえば,「善は急げ」と「急がば回れ」とが対立しており,「渡る世間に鬼はなし」と「人を見たら泥棒と思え」とが対立している。一つの命題自体が矛盾しているものも多い。たとえば,「負けるが勝ち」,「損して得取れ」などである(詳しくは,[野内良三・レトリック入門(2002)54-125頁]参照)。法律の条文は,厳密な前提条件をまとうことによって,このような対立・矛盾を極限まで押さえ込んでいるが,それでも,なお,重複する条文や,相互に対立・矛盾する条文を抱えている。
従来の法学教育は,裁判官の立場に立って,事件に適切な条文を適用すれば,正しい解決が導かれるという考え方に基づいていた。しかし,裁判員制度を前提にした法教育は,同一の事件に適用できる複数の条文があり,その結果,異なる結論が導かれることがあること,そして,その双方の推論経過を丹念に検証し,どちらが妥当かを健全な常識に基づいて判断するという考え方を尊重しなければならない。従来の考え方に基づいて,多くの誤審・冤罪が生じてきたのであるから,それを改善するためにも,法的な解決案には,複数の解が生じるのであり,その双方を尊重しつつ,議論を尽くして,どちらかを選択するというプロセスが重要なのである。
以上の議論を通じて,法教育の目的は,法律知識の獲得ではなく,具体的な事案に法律を適用する推論の仕方について,複数の結論を導くことが可能であることを学習させることであることが明らかとなった。その目的を実現するためには,教師は,具体的な事例を元にして,生徒の興味を引く事例教材を作成する必要がある。その際,刑事事件と関連し,かつ,身近に起こる「不法行為」の事例を中心に事例を作成するのが適切であろう。不法行為に関する重要な条文は,10を超えない上に,その裁判における適用頻度は,どの領域よりも,飛び抜けて高いからであり(詳しくは,[加賀山・学習法入門(2007)7-13頁]参照),不法行為の事件,たとえば,食中毒事件,学校事故,交通事故,医療過誤事件等の身近な事件について,問題解決における推論の過程を経験できるようになると,裁判におけるほとんどすべての推論の仕組みが理解できるからである(具体的な判例の選択の際しては,[民法判例百選U(2009)77-100事件],[消費者法判例百選(2010)68-87事件]が参考になる)。
法教育における教育方法も,裁判員制度における評議・評決と同様に考えることができる。法学とレトリックを学んだ教師が中心となって生徒の興味を引く事例問題を作成し,代表的なものを選んで,一般的な問題の解き方(@事件の図示,A事件に提供できる複数の条文の発見,B事実に条文を適用する場合の解釈の方法,C反対説に対する応接・議論,D結論)に従って,問題を解いて見せた後,生徒に他の事例を選択させ,数名のグループごとに,その解決策を,上記のような推論の流れであるアイラック(IRAC)という配列法に従って,プレゼンテーションをさせるのがよい。前半は,教師が生徒を教え,学生が質問をするのであるが,後半のプレゼンテーションは,生徒が教師に教えるという形をとる。教師は,生徒のプレゼンテーションを見て,誤りを指摘したり,改善方法を指摘したりするとともに,よい点をほめる側に立つ。これが,専門家(教師)と素人(生徒)の協働による新しい法教育に実現の姿である。
本稿で提案した新しい法教育の方法論(プレゼンテーション方式授業モデル)は,従来の教育方法が「教えすぎ」に陥り,生徒の本来の能力である自学自習能力,批判的精神と想像力の発展を阻害していたことの反省に基づくものである。法教育の新しい授業モデルは,授業の3割〜半分を学生のプレゼンテーションに当てることによって,学習に対する生徒の「自主性と責任感」を呼び戻すこと,そして,「生徒が教師に教える」という逆説的な発想に基づく授業モデルを通じて,「教えることは学ぶことである」という真理を教師と生徒が共有するに至ることをめざしている。このような法教育の授業モデルが普及することによって,「素人と専門家との協働」という裁判員制度が実現しようとした目標が,「生徒と教師の協働」として実現されることになるのである。