作成:2010年10月9日
明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂
インターネット社会においては,ホームページ,電子掲示板,ブログ,ツイッター等のコミュケーション手段を通じて,個人が自らの見解を社会に発信することが容易となり,そのような個人の見解が,国会での議論や情報源としてのマスコミに勝るとも劣らぬ質と量を確保するに至っている。
そのことは,直接民主制が始まった頃に市民が経験したのと同じような状況が,現在の私たちにも生じているということができる。なぜなら,民主主義が始まった当初は,弁論の素人である市民も議会に出席して個人の意見を述べる必要があった。このため,古代ギリシャでは,市民が議会に出て堂々と弁論するために,弁論修辞術(レトリック)に習熟する必要が生じた[野内良三・レトリック入門(2002)5−6頁]。このことは,インターネット上で自らの意見を述べる機会に恵まれると同時に,そこで公開した見解に対して,思わぬ相手から責任を追及されるという危険が隣り合わせになっている現代社会においても,同様に妥当する。むしろ,現代であるからこそ,古代ギリシャで発祥した「説得と議論の技術」としてのレトリックが,弁論だけでなく,文章構成・推論の技術としても,その重要性を増しているということができる。すなわち,情報化社会,特に,インターネット社会においては,第1に,以下のように,詐欺的な商法から身を守るためも,第2に,異なる意見の人々の間で合意を得るためにも,第3に,不当な言いがかりに反論し,不正をとがめるためにも,正しいレトリックの技術を身につけることが必要となっている。
第1に,「正当な」レトリックまたは「うさんくさい」レトリック(詭弁)を駆使して,ホームページやメールを介して広告宣伝を行う企業に対して,その戦略に安易に乗せられないためにも,「説得と議論の技術」としてのレトリックを理解しておく必要がある。特に,レトリックを悪用して詐欺的な商法を行う企業から財産を守るためには,レトリックの効用と危険性の両面を理解しておく必要がある。これは,「護身のためのレトリック」である。
第2に,インターネット社会で自分の考えることを発信し,他人の賛同を得たいと思うのであれば,自分の考えを他人にわかりやすく,しかも,説得的に述べる方法としてレトリックをマスターする必要がある。これは,「合意形成のためのレトリック」である。
第3に,他人からいわれのない攻撃にあったり,他人の不正を非難する場合にも,力が入りすぎて議論が炎上したり,誹謗中傷となって自滅したりしないためにも,正しい攻撃の仕方としてのレトリックを習得する必要がある。これは,「告発のためのレトリック」である。
レトリックのこのような@護身,A合意,B告発の機能は,従来は,剣や銃等の武器によって実現される傾向にあった。しかし,その結果は,暴力沙汰から戦争に至るまで,悲惨な結末しか生じない。民主主義と平和を愛する現代社会においては,問題を解決する手段として,「言論による説得の技術」の総称としてのレトリックが,剣や銃に取って代わるべきであろう。
民主主義を生きる現代市民にとって必要不可欠の上記の課題,すなわち,@護身,A合意形成,B告発というすべての課題において,剣や銃等の武器に代わって,言論による説得の技術としてのレトリックが市民の共通の財産となったときに,はじめて,「文は剣よりも強し」という状態が実現できることになる。このような状態を市民が享受できるようにするためには,なるべく早い時期,すなわち,義務教育の段階から,レトリックの教育を始める必要がある。
学校教育の現場を振り返ってみても,暴力に訴えようとする人々の多くは,自分の意見を言葉によって表現することが苦手な人であり,そのような人は,「口よりも先に手が出る」という傾向が見られる。したがって,そのような人も,学校教育の中で,レトリックの技術を習得し,「言葉による説得」の能力を獲得できれば,「手を出す前に口で言う」という習慣が自然と身につくようになる。
暴力による問題解決の問題点は,強い者が勝ち,弱いものが負けるという,理性や正義とは無関係の原理に支配されるため,敗者に恨みや憎しみが残る点にある。これに対して,レトリックの場合には,得られる結果が納得であるから,勝ち負けは生じない。確かに,長い歴史の中では,レトリックが,相手を「言い負かす」ために,「手段を選ばない詭弁」へと堕したこともあった([野内良三・レトリック入門(2002)6−9頁],[香西・論争と詭弁(1999)37−88頁])。しかし,レトリックの本来の目的は,説得を通じて,「双方の利益の調和,合意の形成,徳の賞賛・悪徳の抑制」を実現することにある。したがって,レトリックが正しく使われた場合には,争っている当事者同士が,ともに満足する結果が得られるのであり,勝者も敗者も生じない(win-win solution)。学校現場において,レトリックの技術と考え方が,問題を平和的に解決する最良の方法として,徹底的に学習されるべき理由は,まさにこの点にある。
学校教育に法教育が必要とされる議論に「だめ押し」ともいえる根拠を与えたのは,2004年5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し,2009年5月21日から裁判員制度が開始されたことであろう。
従来の裁判においては,判決を下すのは,最難関といわれる司法試験の合格し,研修を受けた上で専門家と認められた裁判官であった。裁判官とは,いわば,素人とは対極にある人々であった。ところが,新しく導入された裁判員制度の下では,重大な刑事事件(殺人,強盗致死傷,傷害致死,危険運転致死,現住建造物等放火,身の代金目的誘拐,保護責任者遺棄致死など)に限定されるとはいえ,国民のうちから法律の素人である6名が無作為に選ばれ,裁判員として判決を下す側に回ることになった。すなわち,素人である裁判員が,「被告人が有罪かどうか,有罪の場合どのような刑にするか」について,専門家である3名の裁判官と一緒に評議し,評決を下すことになったのである。
素人である裁判員に専門家である裁判官と同等の権限を与えたのは,素人のもつ「健全な常識とものの考え方」に信頼を置いているからであり,そこに裁判員制度の画期的な点がある。しかし,裁判員制度を持続させていくためには,国民の法律に関する健全な常識と,法的なものの考え方を形成・強化するための法教育が不可欠の前提となる。裁判員の重要な役割である「事実認定」は,実は,法律の条文に即して行われ,必然的に法律の推論(解釈・あてはめ)が介在するのであるから,裁判員が職務を全うするためには,「法律に関する常識と推論に関する知識」が不可欠となるからである。確かに,裁判員の役割は,事実認定と量刑だけだから,「法律の知識はなくても,裁判員としての職務は全うできる」というのが公式の見解であるが,それは,あくまで建前に過ぎない。
人の生死まで左右するほどの重要な刑事事件について,裁判所の最終的な判断である評議・評決に,素人である裁判員が加わることになったのであるから,学校現場において法教育が推進されるべきであることは,少なくとも,理論としては,もはや争うことができない事態となったといえよう。
それにしても,裁判員制度において,なぜ,素人である裁判員が専門家である裁判官と同等の地位を占めることが可能とされたのであろうか。これが,今後の社会のあり方を考える上での最大の問題,すなわち,素人と専門家とは,どのように関わっていくべきなのかという問題である。この問題は,突き詰めていくと,「素人主権」か「専門家主権」かという,民主主義の根本問題に帰着する。すなわち,民主政治においては,素人の意見を参考にしつつ,最終的には専門家が決定を下すべきなのか(専門家主権),それとも,専門家の意見を参考にして最終的には素人が決定すべきなのか(素人主権)という重大な問題である。
この問題を,裁判員制度に即して考えてみよう。まずは,裁判官の専門性の問題である。裁判官は,殺人,放火,誘拐,遺棄等を犯した人を裁く側であって,事件の内容である殺人,放火,誘拐,遺棄等の専門家ではないことはもちろんである。それでは,裁判官は何の専門家なのであろうか。
日本国憲法76条3項は,裁判官の職務について,「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定している。すなわち,裁判官は,一応は,日本国憲法と法律の専門家と考えることができる。しかし,裁判官といえども,六法を調べて判決を下すのであって,すべての法律を暗記したり,知ったりしているわけではない。そうだとすると,事件の内容についての専門家でもなく,すべての法律の専門家ともいえない裁判官とは,何の専門家なのであろうか。
そのヒントは,「司法試験法」という法律に示されている。裁判官,検察官,弁護士は法曹といわれており,最難関といわれる司法試験に合格した人々であるから,裁判官が何の専門家であるのかは,裁判官になるために突破しなければならない司法試験で何が試されているかを理解すれば足りる。
そこで,六法で,「司法試験法」を調べてみよう。司法試験法3条によれば,司法試験の受験者は,一定の科目(公法,司法,手続法等)について,短答式と論文式という2つの筆記試験によって,その学力を試される。そして,学力の判定基準は,短答式試験では,「専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうか」(3条1項)であり,論文式では,「専門的な学識並びに法的な分析、構成及び論述の能力を有するかどうか」(3条2項)である。そして,いずれの試験においても,「知識を有するかどうかの判定に偏することなく、法律に関する理論的かつ実践的な理解力、思考力、判断力等の判定に意を用いなければならない」(3条4項)ことが明記されている。
そうすると,司法試験法3条によって明らかにされている法曹(裁判官,検察官,弁護士)に必要とされる専門的な能力とは,つまるところ,「専門的な法律知識」と「法的な推論能力」であることがわかる。しかも,法律知識よりも,むしろ推論能力が重要であることが示唆されている。このように見てくると,裁判官は何の専門家であるかがわかる。裁判官とは,「専門的な法律知識」と「法的な推論の能力」の持ち主であり,端的に言えば,「法律知識」に基づく「法的推論」の専門家であるということになる。
第1の「法的知識」については,論法全書や法律の専門書をひもとけば,素人にも理解できないものではないし,具体的な事件に必要な法律知識は,条文で言えば数箇条,多くとも,数十箇条にすぎず,専門家である裁判官から説明を受ければ,素人にも理解可能であろう。問題は,第2の「法的推論」とは何かである。「法的推論」については,六法全書にも出てこないし,法律の専門書を見ても,詳しい解説は述べられていない。
しかし,アメリカでは,法的推論とは,アイラック(IRAC(Issue(争点),Rules(ルール),Application(適用)/Argument(議論),Conclusion(結論))と呼ばれる法律家の思考方法であることが明らかにされており,わが国でも,そのように考えることに反対する意見はない。ここでいう,法律家の思考方法としてのアイラック(IRAC)とは,以下に示すような,法律家の一連の思考プロセスである[加賀山・学習法入門(2007)33−47頁]。
上記のアイラック(IRAC)のような考え方は,確かに,法律家に特有の考え方ではあるが,その原型は,古代ギリシャで発展し,アリストテレスによって理論化されたレトリック(弁論修辞術)の中の配列法(タクシス)に該当するものである。つまり,法律家の思考方法であるアイラック(IRAC)は,レトリックのうち,法律に特化されたものであるから,一般市民がレトリックをマスターすれば,法律家との議論は,法的な推論の面の点では,スムーズにかみ合うことになる。
レトリックの強みは,法律に限らず,すべての分野における議論のあり方に及んでいるという点にある。レトリックには,これまで述べた法廷弁論以外にも,将来の問題について利害得失の観点から政策を論じる立法技術(審議弁論)や,現在の問題について,徳のある行為を賞賛し,不徳を非難するスピーチの技術(演示弁論)という3部門を有している(詳細は,[浅野・論証のレトリック(1996)64−64頁の折り込み図]参照)。
しかも,レトリックには,説得と議論の分野(ピスティス)と並んで,先に述べたアイラック(IRAC)のような配列法(タクシス)があり,その他にも,修辞法(レクシス)という分野が存在している。そこでは,「花」といって,花の中の「桜」だけに縮小・限定したり(「花見」がその例),「花」といって,花以外の「風流なもの」全体に拡大したり(「花より団子」がその例),「花」といって,植物や動物の範疇を超えた「気高さ」という概念を類推したりする(「彼女は高嶺の花だ」)など,法律学の醍醐味とされる,「縮小解釈」,「拡大解釈」,「類推解釈」というような法解釈学の考え方の基礎がしっかりと分析・解明されている(詳細は,[野内良三・レトリック入門(2002)54−125頁]参照)。
そればかりか,レトリックは,説得のあり方についても,説得の技術に関する3部門(審議弁論,法廷弁論,演示弁論)のように,ロゴス(論理)に訴えるものだけでなく,説得する側のエートス(品格)に訴えるもの,相手方のパトス(感情)に訴えるものというように,議論と説得に関するあらゆる技術を包含している([浅野・論証のレトリック(1996)68−69頁,120−132頁])。したがって,現代において,説得力が求められるあらゆる場面においてレトリックの技術を使えば,その力強さが増すことになる。
たとえば,サラリーマンが,会社でプレゼンテーションをする際にも,レトリックのうちの配置法(法律学におけるIRACに該当する)を利用することが有効である。意欲だけが先走って,いいたいことを思いつくままに並べ立てても,聞き手を説得することはできない。言いたいことを,以下のような順序に従い,予想される反論にも配慮して話した方が,聞き手にとってわかりやすく,納得の得られる方法であることは明らかであろう。
このようなプレゼンテーションの順序に関する法則(配列法)が発見されるまでに,人類は何千年もの間,試行錯誤を続けてきたのであり,それをレトリック(弁論修辞術)の一部に組み込んで理論的に集大成したのが,アリストテレスにほかならない。このように考えると,レトリックは,素人や専門家を問わず,意見の異なる人々が説得を通じて合意形成に至るための平和的な解決方法として,人類が獲得した無形の世界遺産であり,現代社会においても,その有用性は大きいといわなければならない。
先に述べた裁判員制度の話題に戻ることにしよう。裁判における評議の過程で,レトリックをマスターした市民たちの健全な常識が裁判官の専門的な法的知識によって補充・修正されるならば,一般市民である裁判員も,レトリックの技術を使って,裁判官と同様の,もしくは,裁判官の顔負けの推論によって,見事な法的結論を導くことが可能となる。そればかりか,法律の専門家が陥りやすい常識からかけ離れた議論や,論理だけで突っ走ろうとする議論に歯止めをかけ,常識と法律知識とを融合しながら,市民が納得できる結論を導くことも可能となる。6人の裁判員がレトリックの知識を習熟していれば,少なくとも,議論する場合の共通のマナーに基づいて,裁判員(素人)同士の間でも,また,裁判員(素人)と裁判官(専門家)との間においても,議論がスムーズに行われることが期待できる。
法律家に特化された法律知識に基づく思考方法であるアイラック(IRAC)と市民の常識に基づく思考方法(レトリック)とが,コミュニケーションを経て交錯する過程においてこそ,今までの裁判で見落とされてきた推論の誤りが発見されたり,検察官と裁判官とのなれ合いから生じる冤罪事件に対する改善が進んだりすることが期待できるのである。裁判員制度の画期的な点は,まさに,素人と専門家の協働によってお互いの欠点を克服しようとする点にあるといえよう。
これまでの議論を通じて,学校現場において法教育を行う必要性を,インターネット社会の現状,および,裁判員制度が実現されたことによる法律専門家(裁判官)と素人(裁判員)の協働の必要性から明らかにすることができた。さらに,法律専門家と素人が協働するためには,素人も,法律専門家の思考方法の源流となっている常識に基づく説得の技術としてのレトリックを習得することが必要であることを明らかにすることができた。このことによって,学校教育においても,レトリックに基づく法教育を行うことの意義と必要性が明らかになったと思われる。
教育とレトリックとの関係は,[ルブール・レトリック(2000)154−155頁]によって,以下のように明らかにされている。
あらゆる教育の本質は,教育に固有のレトリックを生徒に教えること,換言すれば,教師なしで独習できることを可能にすることを可能にする概念枠組みを生徒に与えること,なのである。たとえば,文学研究や人文科学は,内容以外に,それらが用いる教育法法自体をも教えるわけだ。この方法とは,資料調査,構成,説明,文体,朗読法なのだが,生徒が口頭発表と作文に熟達できるようにする,こうした方法は,本来的な〔ギリシャの弁論術的な〕意味でレトリック的である。事前科学系の教育にあっても,内容を教えるよりは,形式,つまり厳密さ,分析,証明,批判,伝達のセンスを教えることのほうが重要である。こうした「形式」はレトリックの領域に属すると考えることができるのではないだろうか。
本当の生徒とは,いつまでも生徒のままでいることを潔しとしない生徒のことだ。そして,本当の教育,プロパガンダとか洗脳などに陥らない教育とは,それ自身のレトリックを教える教育,つまり,教育のために用いるさまざまな方法自体を教え,生徒をこれらの方法の運用に熟達させる教育のことである。
結論としては,レトリックによる権力の濫用を抑える真の方法は,レトリックを教えることだ,ということになるだろう。
そこで,以下では,学校現場において,レトリックに基づく法教育をいかに実現していくべきかを論じることにする。
学校現場で法教育を実施しようとすると,第1に,対象である法をどのように捉え,どのように教育したらよいのかわからないという,法教育自体の困難さにぶつかる。第2に,法をそれを教えることができる教員の絶対的不足という困難な問題にぶつかる。第3に,法に興味を持たないか,むしろ,法自体を毛嫌いする学習者が多く,興味を引きつける教育が困難であるという問題にぶつかる。学校現場で法教育を行うに際しては,このような三重苦の状態を克服する必要がある。
従来は,法教育は,大学の法学部において実現されてきた。法学部における法教育においては,典型的な法としての六法(憲法,刑法,民法,商法,民事訴訟法,刑事訴訟法)の1つをとっても,それが,特別法によって複雑に分岐しており,しかも,それぞれが,複数の分野に分かれ,専門化している。たとえば,私法の基本法である民法を例にとっても,それは,総則,物権,債権,親族,相続という5編に分かれており,大学では,それぞれの分野ごとに異なる教材を使って,複数の専門家によって教授されるというのが通常である。すなわち,法学部においても,法はいくつもの専門分野に細分化されており,法全体の考え方を教えることができるほどの体系化は実現していない。
したがって,学校現場において,一人の教師が膨大な分野を抱える法全体について教育しようにも,法全体を解説した教材が少ない上に,法全体に関する教材は,抽象的な解説にとどまるため,学習者が興味を持つことができない。反対に,学生が興味を覚える具体的な問題を取り上げようとすると,極度に専門的な知識が必要とされ,それを専門家以外の教員が教えることは困難であるというジレンマを抱えていた。
このようなジレンマを解消するためには,狭い分野であるが,法の考え方を会得するのに適切な1分野を選択し,生徒が興味を持つ事例問題をその分野の知識だけを使って解くことができるような設計をせざるを得ない。しかし,そのように割り切ることができれば,学校現場においても法教育を実現することは不可能ではない。
参考までに,裁判において,どのような条文が適用されているかを調査してみると,裁判では,民法の条文が最も多く適用されており,その中でも,民法709条が圧倒的な適用頻度を記録していること(民法全体の判例のうち,約23パーセントが民法709条を適用した判例である),民法709条を中心とする不法行為に関する10の条文だけで,民事裁判のほぼ3分の1をカバーすることがわかっている。
しかも,不法行為は,過去の事件の不正を問題にする点で,刑事事件とも連続性がある。しかも,被害者の救済という点で,紛争の平和的な解決という法の目的を考える上でも有用である。したがって,不法行為に関する適切な事例(たとえば,食中毒事件,学校事故,交通事故,医療過誤事件等の身近な事件)を選んで問題を作成することは,法の神髄を理解することに通じる。
もしも,このような不法行為に関する事例問題を有名な判決(有名な判決は,別冊ジュリスト・民法判例百選TU,家族法判例百選に詳しく紹介されている)を手がかりに作成すれば,生徒は,わずか10程度の条文を理解する作業,および,レトリックに基づく法律家の思考方法(IRAC)をマスターするだけで,そのような問題をきちんと解き,その結果を理由とともにプレゼンテーションすることが可能となる。そして,2つのチームに同一の問題を解かせて,反対の結論が出るように誘導すれば,模擬法廷における法廷弁論の域にまで達することも夢ではない。
従来の教育は,教える側(教師)と教えられる側(学習者)とを区別し,教える側が主導権を握って,学習者に知識や技術を授けるという方法を採用してきた。この方法は,一定の成果を上げてきたが,教える側が権威者ではなく,アドバイスをすることができるに過ぎないという場合には,教育効果が期待できない。また,権威者による教育の場合には,学習者がその教育に対応できず,消化不良を起こすという弊害を生じてきた。
この点を克服する方法が,教師と学習者の垣根を取り去り,教師が教える時間を半分に抑え,残りの半分を学習者がプレゼンテーションをし,教師と他の学習者とで議論を交わし,プレゼンテーションの中で生じた誤りを正すとともに,優れた部分を賞賛することによって,学習意欲と学習効率を高めるという方法である。
そのような教育モデル(プレゼンテーション学習法)は,教師が,綿密な授業カリキュラムとシラバスを作成した後に,その何割(2割〜5割)かをあえてカットし,カットした時間を学生に与えるという発想の逆転(「学ばせるには,教えさせるのがよい」という逆説的な考え方)に基づいている。具体的には,単元のまとまりがついた時期ごとに,学生(少人数教室の場合は,1人〜3人まで,大人数教室の場合には,3人〜6人までのグループ)に授業時間内でのプレゼンテーションを義務づけるという方法をとる。
全員の前でプレゼンテーションをするという責任を与えられた学生たちは,消極的な学習から積極的な学習方法に移行せざるをえない(教えようと思えば学ばざるを得ない)。そして,教師ばかりでなく,学生からの評価にさらされるという緊張感の下で,評価に耐えうる学習成果を出すという目標に向かって,お互いに試行錯誤を重ね,その結果,自然の成り行きとして,最高の学習方法(自学自習)と,さらに,最高の教授方法(説得的なプレゼンテーション)とを習得するに至る。
最新の授業方法とされているソクラティック・メソッド(教師と学生との対話方式),および,多方向性授業(学生と学生とで議論させる)という方法は,確かに,一方的な講義方法と比較するならば,格段に優れた方法である。しかし,限られた時間の中で,すべての学生が,目標としている学習到達目標に向かって学習を重ねているかどうかを判断するという観点で考えた場合には,個々の学生が,知らないうちに陥っている誤った知識,誤った推論方法を確実に矯正できる方法は,学生自身にまとまりのあるプレゼンテーションをさせる方法しかない。これまでの経験からしても,このような授業モデルを採用した方が,従来の授業モデルよりも,学生同士のコミュケーションが向上するばかりでなく,授業に対する参加意識,および,満足度が格段に向上することを実感しているからである。
法の目的は紛争を平和的に解決することである。そして,その目的を達成するために,紛争当事者が納得する解決案でなければならない。紛争当事者が納得する解決案には,合理的な根拠,すなわち,法的なルールが示されなければならない。憲法72条が,紛争を解決すべき裁判官は,「憲法および法律のみに拘束される」とし,判決に条文の根拠を示すことを求めているのは,以上の理由に基づくと考えられる。
問題解決の根拠は,レトリックの世界では,トポイ・カタログと呼ばれている。トポイは,トポス(論拠)の複数形である。たとえば,第1に,Aが甲不動産をBに侵奪され,Bが虚偽の登記を有していた場合に,その登記を信じてBから甲不動産を買い受けたCは,気の毒ではあるが,甲不動産に関する権利を取得できない。甲不動産の売主Bは無権利者であるため,「何人も自分の有する以上の権利を譲渡することはできない」[フィーヴェク・トピクと法律学(1993)93頁]というトポス(論拠)がその根拠となる(常識に基づく推論)。
これに反して,第2に,Aが乙動産を盗んでBに売り,2年後に,Bから乙動産を盗品と知らずに買い受けたCは,乙不動産の所有権を取得できる。「ある人によって創出された虚偽の外観を善意・無過失で信じた者は,真正の権利を取得する」(権利外観法理)というトポス(論拠)がその根拠となる(専門的な推論)。
第1の場合の根拠とされる「何人も自分の有する以上の権利を譲渡すことはできない」と,第2の場合に根拠とされる「ある人によって創出された虚偽の外観を善意・無過失で信じた者は,真正の権利を取得する」とは,そのままでは,互いに矛盾することになるトポス(論拠)であるため,法律家は,第1のトポス(論拠)を原則(一般法)として,第2のトポス(論拠)をCが善意・無過失の場合に,かつ,盗品の場合には,盗難から2年を経過した後にのみ適用される例外(特別法)であるとして,両者の関係を調整する作業を行っている。すなわち,一見矛盾するようにみえるトポイ・カタログの整合性を確保するために,それぞれのトポス(論拠)の適用の優先・劣後関係を明らかにするという体系化の試みである。
問題の解決にどのような基準を使うべきか,その基準を発見し,それをトポイ・カタログに追加していくのが,レトリック的思考(発見の思考)である。しかし,トポスが追加されていくと,トポス間で,矛盾が生じることは避けられない。そのような矛盾を解消するために,個々のトポスの適用の優先・劣後の関係を明らかにするのが専門家の思考としての体系的思考である(レトリック的思考と体系的思考の対立については,[フィーヴェク・トピクと法律学(1993)53-59頁]参照)。
このように,トポイ・カタログは,それが専門家によって体系化されたとき,すなわち,個々のトポスを一定の観点から分類し,1つの概念(公理)から発展する構造として体系づけられたときに,素人にもわかりやすい明確な基準となる。しかし,その後,問題解決の基準として,新たなトポスが発見され,従来の体型ではそのトポスをうまく位置づけることができない事態が生じた場合には,新しいトポスを全体のトポイ・カタログの中で再度位置づけることができるように,体系自体を組み替え直すことが必要である。
このように,トポスが追加されるのに応じて,体系を柔軟に組み替え直す仕事に携わるのが学者の仕事である。トポイ・カタログが体系的に整理されていることのメリットは,トポイ・カタログの利用が効率化され,トポイの解釈の範囲が明確になるばかりでなく,トポイ・カタログに隙間があることもわかり,いつか,その隙間を埋めるトポスが発見されることを予言することも可能となるという点にある。
このようにして,法律学は,レトリック的な発見の考え方によって発展すると同時に,体系的な思考によって,判断の根拠がわかりやすく,整合的になっていくのであり,一般常識と専門家の知識との間の架橋が実現するのである。