William&Mary大学Coven教授の不法行為法の講義の分析

− 故意による不法行為・暴行 −

2002年9月23日

名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山 茂


T 背景知識


英米法における不法行為法(Law of torts)の特色

  1. 現在でも,ローマ法以来の個別的な不法行為類型,特に,故意に基づく不法行為類型(暴行,脅迫・暴行未遂,不当監禁,不動産侵害,動産侵害等)を尊重しており,わが国のような一般不法行為に基づく被害者救済体系を有しない。
  2. 故意による不法行為の場合には,填補賠償(compensatory damages)以外に,懲罰的損害賠償(punitive damages)が認められている。このため,わが国の一般的不法行為に近いnegligence(過失による不法行為)という訴訟類型が発達しているにもかかわらず,故意による不法行為という類型が根強く生き残っており,現在においても重要な意義を有している。
  3. 故意による不法行為が重要な地位を占めているため,意図と現実とが食い違った場合,例えば,加害者がAに対して違法行為を行おうとして誤ってBに被害を与えた場合において,被害者を救済するためには,故意の移転(transferred intent)というような擬制を用いる必要が生じる。この点,わが国では,民事責任の場合,故意と過失とを区別しないため,Aに対する故意がBに対する故意へと移転したなどという無理な擬制をする必要がなく,素直に,Bに対する被害の発生に対して,加害者に過失があったことを認定すれば済む。
  4. しかし,わが国においても,製造物責任や独禁法違反に対して,懲罰的損害賠償を認めるべきだという声が高まってきており,このような制度を導入するとすれば,過失に基づく不法行為と故意に基づく不法行為責任とを区別する必要が生じるのであり,アメリカにおける上記の議論は,わが国においても重要な意味を有することになるであろう。

U 引用されている判例と論点


論点A 故意の移転(故意の流用)(transfered intent)について

判例A(Talmage v. Smith, 59 N.W. 656 Mich. 1894. July 5, 1894.)

自分の敷地の中の小屋の屋根に上っている2,3人の子どもに向かって,「屋根から降りろ」と叫ぶとともに,その子どもたちえを脅かそうとして棒切れを投げたら,それが,視界にはなかったが屋根から降りようとしていた他の子どもの片目に当たって,その子の片目が失明した事案につき,故意による不法行為(trespass)に基づく責任を認めた事例

英米法辞典による解説

故意の移転:故意による不法行為または犯罪において, 加害者がAに対して違法行為を行おうとして誤ってBに被害を与えた場合, Bに対しては故意がないというのではなく, Aに対する故意が移転したと擬制する法理. 打撃の錯誤的な場合.

論点A-1 子どもを狙って棒切れを投げたが,その子ではなく,別の子に当たって失明した場合,別の子に対する暴行の故意はあったか。

論点A-2 子どもを狙って棒切れを投げたが,投げた意図が単に脅かそうとして投げた場合,結果として生じた失明の結果に対する故意があったといえるか。

論点B 暴行の要件としての許し難い接触(offensive contact)について

判例B(Fisher v. Carrousel Motor Hotel, Inc. 424 S.W.2d 627 TEX 1967. Dec. 27, 1967. )

学会に参加した数学者が学会のあとホテルの立食パーティに出て,皿を持って待っていたところ,ホテルの従業員が近づいてきて,彼の手から皿を引ったくり,「黒人の来るところじゃない」と怒鳴りつけたため,精神的なショックを受けた数学者が故意による不法行為(battery)に基づいて損害賠償を求めた事件について,400ドルの損害賠償のほかに,500ドルの懲罰的賠償を認めた事例

英米法辞典による解説

許し難い接触: 通常人が個人の尊厳を傷つけられたと思うような態様で, 他人の身体または衣服など身体と密接した物に故意に触れること.相手方がその接触を知覚することは必要ではない.Battery (暴行)の成立には, 被告が harmful or offensive contact を加える意図をもち, かつそのような接触が行われたことが, 要件とされる.

論点B-1 ウェイターが黒人客の持っている皿をひったくった場合に,身体に対する直接の接触はないが,他人に対する接触があったといえるか。

論点B-2 ウェイターが黒人客が持っている皿をひったくった場合に,他人に対する接触のうち,暴行の要件としての「許し難い接触(offensive contact)」があったといえるか。

論点B-3 ウェイターが黒人客が持っている皿をひったくった際に,「黒人の来るところじゃない」と怒鳴りつけた場合に,暴行の要件としての「許し難い接触」があったといえるか。

論点B-4 ウェイターが黒人客に対して,皿をひったくらずに,「黒人の来るところじゃない」と怒鳴りつけただけの場合に,暴行の要件としての「許し難い接触」があったといえるか。


W 講義で用いられた事例


講義では,判例そのものを議論する替わりに,判例よりも,争点を絞った例を挙げて,理解を段階的に進めるという方法が採用されている。

Lecture on tort law by Prof. Coven

事例1 Aが爆竹をYatesに投げた。Yatesは爆竹を拾った。Yatesはその爆竹を,Rileが栗を焼くために炊事炉で火を使っているのを知っていながらRileの屋台の中に投げ込んだ。爆竹は炊事炉の真ん中に落ち,爆発し,Rileとその屋台を市場中に撒き散らし,その町は全焼した。Yatesは,故意に基づく不法行為責任を負うか。

事例2 棒を投げつけた被告の例。被告がXさんに向けて棒を投げる。こんなことをする権利は彼にはない。被告の行為は不合理な行為だ。被告の棒は,Xさんを外れて,見えなかった赤の他人の原告に当たってしまう。被告に責任はあるだろうか?

事例3 ここにはいやというほど時間を持て余している青年がいる。青年はかなり大きい毒蜘蛛を捕り箱に入れていた。本物の蜘蛛だ。明らかに青年は怖がってなどいない。蜘蛛には細い糸がつながれている。青年は、ちょうどお婆さんが道を通りかかったところでその蜘蛛を吊り下げた。お婆さんがちょうど通りかかった時、蜘蛛をお婆さんの目の前に来るようにつるした。青年はこの蜘蛛をかなり気に入っていて傷つけたりしたくないので、お婆さんに実際当てるつもりはなかった。しかし、あいにくちょうど蜘蛛をぶら下げたときに風がふいたために、不幸なことに蜘蛛はお婆さんの顔に当たってしまった。可哀相なお婆さんは突然目の前にぶら下がった蜘蛛を見て悲鳴を上げたのは言うまでもないが、横に飛び避けた拍子に転んで足を骨折した。さて、彼に責任はあるか?顔に当たらなかった場合はどうか?

事例4 お婆さんが道を歩いている。可哀想なお婆さんはとても傷つきやすいので例に使うのに適している。傷つきやすい可哀想なお婆さんが道を歩いている。この方向に歩いているのが彼女の顔から分かる。見知らぬ人が後ろから近づき、とてもやさしく礼儀正しく彼女の肩にふれ、すみませんが、どこどこまでの行き方を教えてください、と話しかける。暴行か? お婆さんよりはるかに背の高い、長髪をピンクに染めて、体中にピアスをしているパンク少年がお婆さんの肩を叩いた。お婆さんは振り返って、度肝を抜かす。お婆さんは弁護士に連絡してこの少年を暴行で訴えることができるか?

事例5 ある歯科医がいて,この歯科医は女性患者に完全に麻酔をかけ、許可されていない治療をする傾向があった・・・女性患者の歯に穴を開け続けたか何かだ。女性患者たちは全く知らなかった。気づかなかった。最後には誰かが窓からのぞいていて歯科医のやっていることが発覚したのだ。暴行か?いくつもの証拠がある。被害者に被害の自覚がない場合も暴行とみなせるのだろうか?暴行という不法行為では何が守られているのだろう?

事例6 カフェテリアで食事をしているとしよう。食べ終わる。あなたは立ち上がり、トレーを返しに行く。そこにはトレーを受け取る人がいるはずだ。トレーを受け取る人は、今日は機嫌が悪くあなたから乱暴にトレーを取る。暴行だろうか?

事例7 科学者気取りの学生がとても強力な赤い染料を手に入れた。この学生はこの染料を食べ物に入れたらとても楽しいのではないかという案を考えて実行した。この後、トイレで用を足した数人の生徒たちが仰天するという結果になった。みんなも想像できるとおり、診療所が患者でごった返すという騒ぎだった。暴行か?君たちに悪いアイディアを与えているわけじゃないぞ。私が住んでいたのは治安の悪い南フィラデルフィアだ。暴行だろうか?


X 質疑による講義の展開


講義では,判例の論点が,別の事例を通じて,次々に明らかにされていく。

Discussion between the professor and students

故意の移転

対象の錯誤

Q:次に進むことにしよう。棒を投げつけた被告の例を挙げよう。被告がXさんに向けて棒を投げる。こんなことをする権利は彼にはない。被告の行為は不合理な行為だ。被告の棒は、Xさんを外れて、見えなかった赤の他人の原告に当たってしまう。被告に責任はあるだろうか?

A:はい。

Q:引用すると?明らかな「故意の転移(transferred intent)」だ。さて、被告が、誰かを傷つけようとか、攻勢をとろうとか、自己防衛をしようとかして、合理的な行為をとっていたことが判明したとする。彼はまさにXさんを攻撃する絶対的な権利を持っている。しかし彼はXさんを外し、原告に棒をあててしまう。原告に対して責めを負わなくてはいけないのか?彼はXさんに当てようという完全な故意で棒を投げるが、外してしまい原告に当たってしまう。

A:もし被告が合理的な行動をしていたのであれば、原告による損害賠償請求(recovery)は認められないでしょう。

Q:原告にとって被告が合理的な行動をしていたか否かは関係あるだろうか?

A:被告は合理的な行為をとっていたのであれば責任は問われないと思います。

Q:では君は「ない」と言うのだね?君の答えは、「ない」ととっていいね?

A:そうです。彼は不合理な行為をとったとみなされたのだと思います。

Q:そう。仮に・・・君の答えは正しい。君の結論に同意する。ただこれは果たして意味をなすのか、どうしてこの結論に至ったのかという疑問を投げかけているだけだ。確かに、原告には関係ないことだ。被告が合理的な行動をしていたか否か、Xさんに当てようとしていたとしても、原告の負った傷には変わりはない。もしも被告にXさんに傷を負わせる権利があって、しかし被告は原告を見て間違えてXさんだと思い、原告に向けて棒を投げたとしたらどうだろう?被告に責任はあるかな?

A:あると思います。それは誰かの飼い犬を狼と間違えて銃で撃つのと同じではないですか。

Q:さて、もし君の言うことが正しければ、彼に責任を負わせるのは正しいだろうか?どうしてXさんと間違えて原告に向けて棒を投げたときは責任があり、Xさんに向けて棒を投げて的を外して原告にあててしまったときは責任がないのだろう?それは・・・我々の意見は矛盾していないか?意見に調整をつけられるだろうか?矛盾していないか?

A:YさんをXさんと間違えてYさんに棒を投げるとき、その人は社会的損失を避けられる立場にいる。Yさんが見えずにXさんを狙って投げるとき、その人は何が起こるか予知できないため社会的損失を避けることはできなかった。

Q:つまり我々は身体の欠陥を許しても、精神的欠陥は許さないということか?最後に、もしもこの男が故意に、故意だということを認めるとしよう、故意にXさんを怖がらせるために棒を投げたとしよう。棒を当てるつもりはまったくなく、Xさんを怖がらせるために故意に棒を投げた。彼は意図的にXさんを外した。そして棒は原告にあたった。責任はあるか?

A:あると思います。彼は棒を投げたわけで、たとえ的を外したとは誰かにあたってしまったから。

Q:誰かTomixの中からこれに関連することを見つけた人はいるか?

A:裁判官は陪審に3通りのシナリオを説明した上で選ばせました。第一に、被告が彼らを驚かせようと故意に行い、原告にあたってしまった場合、被告に責任はない。

Q:被告に責任はないのか?

A:彼は放り投げたわけではなく、力を加減していたから。

Q:力はここでは出てこないだろう。もし被告が故意に人に当てたわけではないとしたら。故意ではなかったのだ。

A:ひとつ納得できないのは、もしも人のかたまりからそれほど離れていない距離から棒のような物を投げたら・・・たとえ人を怖がらせようとしていたとしても、何か違法なことをしていることになると思うのですが。

他の類型の不法行為への故意の流用

Q:法廷では、もし男が故意に暴行を犯そうとして原告に暴行を犯した場合、男に責任はあるとしている。これは道理にかなっているか?どうしてそんな区別をつけるのか、そうじゃないか?これは我々が法律と理解するものなのか?彼は間違っていたのだろうか?

A:それは3つ目の注釈に矛盾していると思います。それは・・・

Q:2つ目の注釈のことか?

A:もし誰かに脅迫(暴行未遂)をして、それが暴行ということになったら、その人に責任はあります。この注釈では違います。

Q:ではどういうことだろう?何が道理にかなうか?Prosserは正しいのか、間違っているのか?

A:私の考えではProsserは正しいと思います。人は自分の行動にもっと責任を持つべきですし、本能的な抵抗のようなものです。

Q:5つある故意の不法行為の中で、故意の移転は一人の意図された被害者から次の被害者へと移っていくことが我々にも分かってきた。そうだな。しかし明らかに1894年のミシガンの法廷ではこれは正しく理解されていなかった。30ページの暴行に関するリステイトメント(restatement)の定義を見て、それを類型的な事実状況(routine fact situation)に応用してみよう。

許し難い接触

Q:ここにはいやというほど時間を持て余している青年がいる。彼はここだ。青年はかなり大きい毒蜘蛛を捕り箱に入れていた。本物の蜘蛛だ。明らかに青年は怖がってなどいない。蜘蛛には細い糸がつながれている。青年は、ちょうどお婆さんが道を通りかかったところでその蜘蛛を吊り下げた。お婆さんがちょうど通りかかった時、蜘蛛をお婆さんの目の前に来るようにつるした。青年はこの蜘蛛をかなり気に入っていて傷つけたりしたくないので、お婆さんに実際当てるつもりはなかった。しかし、あいにくちょうど蜘蛛をぶら下げたときに風がふいたために、不幸なことに蜘蛛はお婆さんの顔に当たってしまった。さて、彼に責任はあるか?

A:ないと思います。

Q:このリステイトメントの中に書かれていることによると、このリステイトメントの中に書かれていることを実際の法律だと仮定すると、もちろんリステイトメントは単なるおしゃべりに過ぎないことは分かっているが、どうだろう。

A:彼は意図的に損害を与えようとしたわけではない。

Q:彼は意図的に与えようとしたわけではない?

A:もし彼が意図していなかったなら。

Q:そこで終わりだ。これはまったく違った経験だ。ここで私は色々な事例に関わる事が出来る。私は常に文章の最後まできちんと読むようにしているが、生徒たちにそうするよう怒鳴りつけたりしたことはない。実際には彼らに文章の最後まで読むような気力がないからだ。最初の2、3文字を読んだだけでうとうとしてしまう。重要な物事は文章の最後にくるものだ。

A:我々が考えなくてはいけないのはお婆さんがが・・・お婆さんに急迫した危険があったかどうかです。

Q:文章の最後まで読もう。

A:もしお婆さんが、実際に蜘蛛がおばあさんの体に当たるのを恐れていたのなら、蜘蛛がお婆さんに当たったかどうかは関係ないと思います。

Q:お婆さんが恐れていたかどうかはここで関係があるのか、それがここでの焦点だろうか。文章の最後を読むと同時に、最初もきちんと読まなくてはならないぞ・・?

A:もし、接触が故意でなかったら。もしこのどちらかが事実であれば、必要な情報はそれだけだと思います。

Q:この青年が仮に成長したBrianだと推定しよう。Brianもまた生意気な小僧だ。このリステイトメントが何を言っているかというと、もしもあなたが故意に脅迫し、いいか、故意に急迫な暴行の恐れを与えて、有害もしくは不快な接触をもたらした場合、どちらにしてもそこに責任はある。彼自身が接触を意図しなかったとしても、そこに故意はあるのだ。ここで言っていることが分かるか?これは文章を最後まで読むことよりも複雑だ。制定法の解釈というのにはまったく別のルールがあり、苦しい作業なのだ。このリステイトメントをもとに考えて、もしも接触がなかったとしたらどうだろう。意図が何だったにせよ、もし接触がなかったら?可哀相なお婆さんは突然目の前にぶら下がった蜘蛛を見て悲鳴を上げたのは言うまでもないが、横に飛び避けた拍子に転んで足を骨折した。青年は故意に接触したわけでなく、蜘蛛との接触も全くなかった。君たちはどう思う?

A:もしもその女性に接触の急迫な危険があったのなら、実際接触したかどうかというのは関係ないと思います。

Q:さて、ここでは接触はあったか?どうだろう、接触はあっただろうか?

A:その蜘蛛はお婆さんに実際当たったのですか?

Q:当たっていない。

A:それは直接的でも間接的でもありうるので、当たったかどうかは関係ないです。彼の行為が直接、もしくは間接的に害をもたらし、お婆さんが転んで足を骨折したのは明確です。

Q:何が直接でも間接的でもありうるのだ?

A:原因、彼の原因です。もし、この不快な接触が・・・もし彼の行為が直接もしくは間接的に害の原因となったなら、リステイトメントによると彼に責任はあります。

Q:この事例はBrianの事例によく似ている。Brianは老女に椅子で大怪我させなかった。その老女が死んだらどうなった?その老女が死んだらどうなっただろう?ここでは、あなたは蜘蛛を吊るして下ろす。お婆さんがいる。蜘蛛を吊るす。お婆さんはその場で死んでしまう。この理不尽な死の責任は蜘蛛を吊るしたあなたにあるだろうか?我々はまったく別の問題に移っている。ここでの問題は責任の範囲だ。この問題は、被告は屋台を爆発させようとして町全体が全焼したことの責任を負わなければならないのかという質問によく似ている。おそらく被告は責任を負わなくてはならないだろう。彼は結果すべてに責任があるのだろうか。まだこれについては話し合っていないな。故意による不法行為の範囲を見てみると、責任の範囲はとても広がっていく傾向がある。実際に被告は、もし暴行の責任があるとすれば、おそらくすべての結果に責任があることになるだろう。まったく予知できなかった結果も含めてだ。

A:定義では故意による接触の急迫な危険のおそれとされていますが、お婆さんが起きた事についてどう考えるかというのは関係ありますか?急迫な危険の恐れとはお婆さんが感じたであろうと彼が感じたものとされています。そもそもこれは関係あるのでしょうか?彼が言ったように、お婆さんは恐れを感じるのでしょうか、そしてそれは重要なのでしょうか?

Q:このシナリオの全体をつなげて考えなくてはならない。もしお婆さんが関係ないとすれば、お婆さんは足を骨折していないだろう。蜘蛛につばを飛ばして通って行っただろう。大きな蜘蛛だねえ、と。

A:もしお婆さんがそのまま歩いていったとしても、これは暴行となります。

Q:何が暴行とみなされるのだ?

A:なぜかというと、青年は蜘蛛を吊るしました。お婆さんはただ通り過ぎます。青年はお婆さんを驚かせようとしていたのです。青年は故意による不快な接触の急迫な危険を感じさせようとしていたので、これは暴行となるのではないでしょうか?

Q:そうだ。青年の行為が暴行とみなされるには何がなくてはいけないか?

A:損害です。

Q:暴行がなくてはならない。有害もしくは不快な接触が結果的になくてはならない。もちろん、次の節は脅迫・暴行未遂(assault)についてだ。脅迫・暴行未遂はあったかを検証するべきだろう。しかし、そこに接触がない限り、暴行はない。ここでもいくつかの条件がある。ここでなんらかの傷害を受けていない限り、残念ながら訴訟を起こすことはできないのだ。重要なのはここだ。


Y まとめ


日本の大学が,「学問の府」から「遊技場」へと変質したといわれて久しい。わが国の法科大学院構想は,遊技場または予備校と化した法学教育から脱却し,実務に密着した題材を用いることによって,そして,学生たちに予習を強制することによって,学生と教師との間の緊張感のある相互のコミュニケーションを実現し,それを通じて大学の法学教育を「知的生産の場」へと復帰させる試みと捉えるべきである。

末弘厳太郎『嘘の効用』(『末弘著作集W・嘘の効用』日本評論社(1954年)127頁以下に再録)には,アメリカに留学して,ケース・メソッドを体験した当時の大学教授が,アメリカのケース・メソッドを紹介した後,わが国の法学教育には,「現在アメリカでやっているように,判例を材料にしてこれを批判させてみるのが,一番適当な方法のように思われる」という感想を述べられている。さらに,同『法曹雑記』(1936年)(『末広著作集W・嘘の効用』日本評論社(1954年)229頁以下に再録)には,アメリカ留学で体験したケース・メソッドの真髄を紹介したのち,以下のような感想とエピソードを紹介している。

初めてこの教育方法に接した私は,こんなことでどうして学生が法学知識を理論的かつ系統的に摂取することができるのか,はなはだ心もとないように思ったのである。わが国の講義では先生は常にまず学理と原則とを教える。そうしてそれを説明する手段としてだかだか多少の実例が引照説明されるにすぎない。常に理論が先に与えられて,すべての説明はただその演繹にすぎない。しかるにアメリカにおいては初めからただ具体的な事件とこれに対する判決が与えられるにすぎない。学生はただ先生の指導によってその具体的なものの中に動いている理論的なもの抽象的なものをみずから探し出すのほかないのである。私が初めてこれに接して驚いたのは当然である。
これまで私はひとり法学教育のみたらず,すべての教育は理論の他動的教授によってのみ与えられるものと思っていた。先生は独断的に理論とその展開ないし応用を説ききかせるのみであって,学生の立場は徹頭徹尾受動的である。子供のときからこの教育方法にならされた私がケース・メソッドの前に驚いたのはげだし当然である。ところがだんだん見聞きしているうちにケース・メソッドの特色が漸次に気づかれてくる。この教育方法においては理論を教える前にまず教材をありのままに学生にぶっつけるのである。そうして学生みずからをして直観によって一応の推論を行わしめた上,これに対して理論的批判を加えて学生みずからに反省の機会を与え,かくして結局学生みずからをして自動的に理論的なものに到達せしめようとするのであって,わが国在来の法学教育におけるがごとく,頭から理論的なものを教えて演繹的にその応用を教えようとするのとは全然正反対な教育方法である。
このそのときまで私のなれていた教育方法とは全く正反対な教育方法はかなり私を驚かせたのであるが,よく考えてみると,今まで私のならされていた教育方法はなるほど知識を分量的に増加させることができる。しかし心と力とを養うことができない。かくのごとき方法によって教育されたわれわれは,なるほど幾多の理論的知識を得ることができたげれども,具体的事件に直面した場合に自分の知っている知識のうちどれをあてはめると問題が解決されるのか,それを直観的に判断決定すべき力を全くもたないのである。ここまで考えてみると,われわれが今まで与えられた教育がきわめてかたわなものであって,いたずらに知識を与えるのみであって力を養うことを閑却していたことに気づかざるをえないのである。
当時,先輩として数年前からアメリカに留学していた高柳賢三君は私に対してアメリカの法学教育に関して次のような説明を与えてくれた。「ケース・メソッドは禅の修行に類似した教育方法である。先生は教えないでただ公案を与える。公案を与えて考えさせる。そうして公案を与えつつ老師の与えるヒントによってみずから悟りに赴くようにさせるところに禅の修業の本旨がある。ケース・メソッドは畢竟これと同じところをねらった教育方法である。」

この文章が書かれたのは,今から70年前の昭和7年(1932年)のことである。教師が教えるという教育ではなく,学生が自ら学び自ら習得するというケース・メソッドに基づく教育方法がこのように明快に紹介されてたにもかかわらず,わが国の大学の法学部では,この方法に基づいた講義は一度も行われることもなく,知識偏重で自分の頭で考えることのできない法学部の卒業生を大量に社会に送り出すことになってしまった。

われわれは,このような反省を踏まえて,いかにしたら学生が多様な事実から生じた紛争に対する解決案を自分の頭で考えて提示できるようになるかを真剣に考え,実践していかなければならない。ケース・メソッド,ソクラティック・メソッドの真髄を知らずに,単にそのような教育方法を表面的に採用したのでは,結局,所期の目的を達成することはできないであろう。

わが国の法科大学院構想が,専門知識を習得するだけでなく,自らの頭で考えることのできる創造性の豊かな法曹を育成できるかどうかは,このような教育方法に基づいた教育改革を実践できるかどうかにかかっている。法科大学院が創設されても,そこで行われる教育が,またしても,知識中心の司法試験に合格させることを念頭において,教師が体系的で高度な知識を伝授するという従来と同じ教育方法を採用してしまったのでは,法学教育改革の試みは必ずや失敗に終わるであろう。

わが国の法学教育が,具体的な事実から出発し,そこから学生自身が法理を導き出す過程を追体験するというプロセスを重視した教育へと変革されること,そして,法学部教育が,従来の一発勝負の受験勉強から脱却した真の創造的な教育へと変容し,そのことを通じて,わが国の若者に自ら学ぶ態度が根付くことを期待してやまない。