明治学院法科大学院ローレビュー16号掲載予定
KAGAYAMA Shigeru, "The Need and Materialization of Law-Related Education"
-- An Attempt to create "Model Diagram for Law-Related Education"
through specializing Toulmin Model --
−トゥールミン図式の特殊化(法的議論のモデル図式)とその応用−
作成:2011年12月15日
明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂
2009年5月21日から実施されている裁判員制度ほど学校教育における法教育の必要性を明らかにするものはないであろう。重大な刑事事件について,被告人の生死(死刑から無罪まで)にかかわる事件について,専門家である3人の裁判官と同等の立場で,全くの素人である国民から任意に選ばれた6人の裁判員が評議・評決に加わることになったからである。
法律に関して全く学習をしていない国民が,突如,裁判員の候補者であることの通知を受け,しかも辞退ができないことがわかり,いよいよ裁判所に出向かなければならなくなった時に陥るであろう「困惑・不安・恐れ」の大きさは想像に難くない。このような「困惑・不安・恐れ」を軽減するためにも,義務教育の一環として,学校において法教育を行うべきであることは,もはや避けることはできないといえよう。
最高裁判所の公式見解によれば,裁判員の役割は,事実認定と量刑だけだから,「法律の知識はなくても,裁判員としての職務は全うできる」とされている。しかし,事実認定は,法律の条文に即して行われ,必然的に法律の推論(解釈・あてはめ)が介在するのであるから,裁判員が職務を全うするためには,法律に関する常識と推論に関する知識は不可欠である。つまり,「法律の知識はなくてもよい」という公式見解は,建前に過ぎない。確かに,条文に関する専門的な知識は必要ではないかもしれないが,条文の要件に適合する事実を発見したり,その事実に条文を当て嵌めたりして結論を導くという法的推論に関する思考力は必要である。
幸いなことに,裁判員に要求される法的推論は,実は,特別な推論ではない。それが判決三段論法と言われているように,根本的な考え方は,アリストテレスによって理論化された弁論修辞術(レトリック)の1部門としての常識による説得証明法(ピスティス)の考え方に従っている[浅野・論証のレトリック(1996)60-64頁]。また,思考のプロセスは,同じくレトリックの1部門である配列法(タクシス)から発展したアイラック(IRAC)という法律家に共通の思考方法によって実現されている。つまり,国民が司法に参加するに際して必要不可欠な素養としての法律家の思考方法(IRAC)とその基礎(レトリック)は,すでに,民主制が発祥した古代ギリシャにおいては,市民が一般常識として有していた思考方法なのである。
さらに幸いなことは,現代においては,法律だけでなく全ての議論に通用する一般的な「議論の技法」がトゥールミンによって提唱されており[トゥールミン・議論の技法(2011)原著の初版は1958年],この議論の技法は,かなり前から,小・中学校の国語教育や社会科教育にも取り入れられるほどにポピュラーになっている。この考え方は,レトリックの一部門である「法廷弁論」にヒントを得て作られたものであり,三段論法を基礎にしつつも,曖昧な常識推論にも適用できるように,あらゆる議論のプロセスを図式化することを可能にした画期的なものである(トゥールミンモデルとか,トゥールミン図式と呼ばれている)。したがって,法教育の順序としては,小・中学校でも利用されているトゥールミン図式を媒介として一般的な議論の方法(レトリック)を学ばせ,その後に特殊型としての法律家の思考方法(アイラック)を提示するのがよいと思われる。そして,具体的な事例をトゥールミン図式で分析し,アイラック(IRAC)で表現するという練習を行うならば,小・中学生の生徒に法律家の思考方法マスターさせることは十分に可能であると思われる。
問題は,どのような理念と方法と内容を学校教育の中で法教育を実現するかである。本稿では,この問題について,トゥールミン図式を媒介としながら,法教育の前提となるレトリック教育の理念は何か,レトリックに基づく法教育はどのような方法によるべきか,法教育の内容はどのようなものとなるのかについて,順を追って明らかにしていくことにする。
インターネット社会においては,ホームページ,電子掲示板,ブログ,ツイッター等のコミュケーション手段を通じて,個人が自らの見解を社会に発信することが容易となり,そのような個人の見解が,国会での議論や情報源としてのマスコミに勝るとも劣らぬ質と量を確保するに至っている。
従来型のマスコミュニケーションにおいては,情報を発信するのは専門家であり,素人は情報を受け取るだけの存在であった。しかし,インターネット社会では,素人も容易に情報の発信者になることができるようになった。その結果,素人といえども専門家と肩を並べて情報発信をしなければならないのであるから,素人であっても,社会にとって有益な情報発信ができるように,情報発信のマナーやノウハウを学ぶ必要がある。
現在の私たちが直面している状況は,直接民主制が始まった頃にギリシャのアテネ市民が経験したのと同じようなものである。なぜなら,民主主義が始まった当初は,弁論の素人である市民も議会に出席して個人の意見を述べる必要があった。このため,古代ギリシャでは,市民が議会に出て堂々と弁論するために,弁論修辞術(レトリック)に習熟する必要が生じたのである[野内良三・レトリック入門(2002)5−6頁]。
古代ギリシャの直接民主制で生じたことは,インターネット上で自らの意見を述べる機会に恵まれると同時に,そこで公開した見解に対して,思わぬ相手から責任を追及されるという危険が隣り合わせになっている現代社会においても,同様に妥当する。
むしろ,現代であるからこそ,古代ギリシャで発祥した「説得と議論の技術」としてのレトリックが,弁論だけでなく,文章構成・推論の技術としても,その重要性を増しているということができる(電子掲示板での議論がどのような問題を生じさせており,その問題をいかに解決するかについて論じてものとして,[岩田議論のルールブック(2007)]参照)。
情報化社会,特に,インターネット社会においては,第1に,以下のように,詐欺的な商法から身を守るためも,第2に,異なる意見の人々の間で合意を得るためにも,第3に,不当な言いがかりに反論し,不正をとがめるためにも,正しいレトリックの技術を身につけることが必要となっている[ルブール・レトリック(2000)155頁]。
第1に,「正当な」レトリックまたは「うさんくさい」レトリック(詭弁)を駆使して,ホームページやメールを介して広告宣伝を行う企業に対して,その戦略に安易に乗せられないためにも,「説得と議論の技術」としてのレトリックを理解しておく必要がある。特に,レトリックを悪用して詐欺的な商法を行う企業から消費者である個人が財産を守るためには,レトリックの効用と危険性の両面を理解しておく必要がある。これは,「護身のためのレトリック」である(この点については,[香西・レトリックと詭弁(2010)]参照)。
第2に,インターネット社会で自分の考えることを発信し,他人の賛同を得たいと思うのであれば,自分の考えを他人にわかりやすく,しかも,説得的に述べる方法としてレトリックをマスターする必要がある。これは,「合意形成のためのレトリック」である(この点については,[ペレルマン・法律家の論理(1986)316頁]参照)。
第3に,他人からいわれのない攻撃にあったり,他人の不正を非難したりする場合にも,力が入りすぎて議論が炎上したり,誹謗中傷となって自滅したりしないためにも,正しい攻撃の仕方としてのレトリックを習得する必要がある。これは,「告発のためのレトリック」である(この点については,[岩田議論のルールブック(2007)]参照)。
レトリックのこのような@護身,A合意,B告発の機能は,従来は,剣や銃等の武器によって実現される傾向にあった。しかし,その結果は,暴力沙汰から戦争に至るまで,悲惨な結末しか生じない。民主主義と平和を希求する現代社会においては,問題を解決する手段として,「言論による説得の技術」の総称としてのレトリックが,剣や銃に取って代わるべきであろう。
民主主義を生きる現代市民にとって必要不可欠の上記の課題,すなわち,@護身,A合意形成,B告発というすべての課題において,剣や銃等の武器に代わって,言論による説得の技術としてのレトリックが市民の共通の財産となったときに,はじめて,「文は剣よりも強し」という状態が実現できることになる。このような状態を市民が享受できるようにするためには,なるべく早い時期,すなわち,義務教育の段階から,レトリックの教育を始める必要がある。
レトリック教育の内でも,法教育に関連するのは,説得の技術としての議論の技術(新しいレトリック)である。新しいレトリックは,アリストテレス以来の弁論術を議論の技術として再構成したものであるが,これをそのままの形で初等教育で実践するには多少の困難が生じる。
この点で,かなり以前から,小・中学校における国語教育[井上・言語論理教育入門(1989)第4章]や社会科教育において,トゥールミン図式を利用した議論に関する授業が行われるようになっていることが救いとなる。実際,インターネット上には,トゥールミン図式を応用した実践授業がいくつも公表されている。そこでは,議論のプロセスと全体像を視覚的に理解できるトゥールミン図式の特色が十分に活かされている(トゥールミン図式の特色と位置づけについては,([嶋崎「立証の構造とトゥールミン図式」(1986)467-475頁],[平井・議論の構造(1989)64-67頁],[亀本・法的思考(2006)226−270頁]参照)。
トゥールミン図式については,後に詳しく論じるが,その原型は,レトリックの基本である三段論法を図式化したものである。トゥールミン・モデルにおいては,議論をするには,最初にデータ(Data)を示して,自分の言いたいこと(Claim:主張)を言うべきである。その際に,相手方が一応なりとも納得できるような理由(Warrant:論拠)を示してから議論をはじめるべきであるという,議論の基本が以下の図によって示されている[トゥールミン・議論の技法(2011)147頁]。
*図1 トゥールミン図式(原型) 議論を始めるに必要なポイントが示されている。 Data:データ(根拠),Warrant:推論保証(論拠),Claim:主張(結論) |
上記の図は,このままだと,従来の三段論法と代わり映えがしない。なぜなら,W(推論保証=論拠)を大前提(例えば「人間は死ぬ」),D(データ)を小前提(例えば,「ソクラテスは人間である」),C(主張)を結論(例えば「ソクラテスは死ぬ」)と置き換えれば,三段論法を図式化したに過ぎないからである。
しかし,この図は,次に述べるように,蓋然性を取り込むことができるように拡張されて,主張(Claim)の様相を限定する,「十中八九」とか「おそらく」という「様相限定詞(Qualifier)」を付け加えること,および,「反論(Rebuttal)」を付け加えることができるようになっているため,現実の議論のプロセスと全体像とを示すことができる以下の図へと発展させることができる[トゥールミン・議論の技法(2011)153頁]。
*図2 トゥールミン図式の完成 Data:データ(根拠),Warrant:推論保証(論拠),Claim:主張(結論) Qualifier:様相限定詞,Backing:裏づけ,Rebuttal:反論 |
トゥールミン図式はシンプルでわかりやすい構図となっている。それにもかかわらず,困難な問題を生じさせているのは,「W:推論保証(論拠)」と「B:裏づけ」との区別が一見したところではわかりにくい点である。もっとも,「D:データ」と「W:論拠」の区別についても議論はある[嶋崎「立証の構造とトゥールミン図式」(1986)471頁]。しかし,トゥールミン自身が,「データと論拠の区別は,法廷における事実問題と法律問題の間に引かれる区別に似ている」[トゥールミン・議論の技法(2010)147頁]と述べており,法律を学習する者にとっては,「D:データ」と「W:論拠」との区別は困難ではないと思われる。
問題のW:論拠とB:裏づけとの区別であるが,トゥールミン自身の記述[トゥールミン・議論の技法(2011)154頁] によれば,「W:論拠」は反駁可能な「仮言的言明(AならばBである)」であるとしているので,要件と効果で書かれた法律の条文も「W:論拠」に含まれることになる。これに対して,「B:裏づけ」は「定言的事実命題(Aである)」としているので,反駁を予定していない定義や公理がここに含まれることになると思われる。
しかし,この点については議論があり,見解が分かれている([嶋崎「立証の構造とトゥールミン図式」(1986)471頁],[亀本・法的思考(2006)235頁])。わが国の有力な見解によれば,法的議論の場合には,「W:論拠」は法規範であり,「B:裏づけ」は条文であるとされている([高橋「三段論法から対話的デフォルト論理へ」(2009)]28頁,[高橋「法的三段論法を超える法的推論モデル」(2009)149-152頁] 参照)。しかし,先にも述べたように,筆者は,法律の個々の「条文」は例外を有し,反論を許すのであるから,[トゥールミン・議論の技法(2011)154頁] に従って,個々の条文は「B:裏づけ」ではなくて「W:論拠」に過ぎないと考えている。そして,「B:裏づけ」は,立法趣旨等から明らかになる条文を支えている原理・原則であり,個々の条文とは性質の異なる強行規定としての一般条項(信義則,公序良俗,公共の福祉等)も,主張する側と反論する側とがともに従うべき言明であるという点で,「B:裏づけ」に含まれるのが妥当であると考えている。
このような問題点があるとはいえ,トゥールミンの図式の特色は,必ずしも従来の論理学や法律を根拠とせずに,「常識」や「ことわざ」を論拠としても,説得的な議論を展開することを可能するばかりでなく,さらに,あらゆる議論のプロセスを図の中に正確に位置づけることができる点にある。このため,トゥールミンの図式を活用すれば,議論の全体像が明らかとなり,議論が拡散したり,横道にそれたりすることを防ぐことができるようになる。この点が,トゥールミン図式の実践的な利点となっている([法教育研究会・法教育の普及・発展を目指して(2004)]は,わが国で最初の法教育の教材例を示したものであるが,トゥールミン図式が利用されていないのが惜しまれる)。
例えば,2011年3月11日に発生した東日本大震災を契機として,原子力発電を推進すべきか,自然エネルギーを利用した発電に切り替えていくべきかが話題となっている。この問題を議論する際にも,トゥールミン図式を使うと,法律ではなく,「善は急げ」,「急がば回れ」というような「ことわざ」を使ったとしても,以下のように,小・中学生でも冷静な議論が展開できることがわかる。
*図3 トゥールミン図式の応用 「ことわざ」を論拠にした議論の例 地球温暖化防止のために原子力発電所の建設を推進すべきか? |
子どもたちは,「原発賛成」か「原発反対」かで感情的に対立し,挙げ句の果てに喧嘩となるというのではなく,まず,この問題について,黒板にトゥールミン図式の枠だけを描き,文部省の副読本([戸田・教えるな(2011)94-95頁]参照)で勉強している賛成派も反対派も,トゥールミン図式の枠内に,それぞれの意見の論拠と反論の内容を書き込みながら,議論をしていくならば,例えば,以下のような冷静な議論を組み立てることができると思われる。
原発賛成派:D:地球温暖化を防止するために,CO2の削減が必要となっている。W:火力発電所と比べると原子力発電所の方がCO2の排出量が少ない。『善は急げ』だから,C:原子力発電を推進すべきである。
原発反対派:確かに,原子力発電は,CO2の削減という観点からは有効かもしれない。しかし,R:損害の防止という観点からは,原子力発電所は地震や津波によって事故が起こると,取り返しのつかないほどの損害が生じ,それは,火力発電所の場合の比ではない。『急がば回れ』だから,自然エネルギーを利用した発電を推進すべきであり,原子力発電の推進に反対する。
そのような議論の中から,両者が,それぞれの主張の論拠を取り入れて,「電力供給の必要を考えると,当面は原子力発電が必要である。しかし,これからは,火力発電や自然エネルギー発電に切り替えていくのがよい」というような合意に達するかもしれない。そのような合意が形成されるならば,賛成と反対とがヒートアップして暴力沙汰に発展することは避けられると思われる。
学校教育の現場を振り返ってみると,暴力に訴えようとする子の多くは,自分の意見を言葉によって表現することが苦手な子であり,そのような子は,「口よりも先に手が出る」という傾向が見られる。したがって,そのような子も,学校教育の中で,トゥールミン図式を手がかりに,レトリックの技術を習得し,「言葉による説得」の能力を獲得できれば,「手を出す前に口で言う」という習慣が自然と身につくようになる。
暴力による問題解決の問題点は,戦争の場合がその典型例であるが,強い者が勝ち,弱いものが負けるという,理性や正義とは無関係の原理に支配されるため,敗者に恨みや憎しみが残る点にある。これに対して,レトリックによる解決の場合には,得られる結果が当事者,専門家,世論の「納得」であるから,勝ち負けは生じない。確かに,長い歴史の中では,レトリックが,相手を「言い負かす」ために,「手段を選ばない詭弁」へと堕したこともあった([野内良三・レトリック入門(2002)6−9頁],[香西・論争と詭弁(1999)37−88頁])。しかし,レトリックの本来の目的は,説得を通じて,「双方の利益の調和,合意の形成,徳の賞賛・悪徳の抑制」を実現することにある。
したがって,レトリックが正しく使われた場合には,争っている当事者同士が,ともに満足する結果が得られるのであり,勝者も敗者も生じない(win-win solution)。学校において,レトリックの技術と考え方が,問題を平和的に解決する最良の方法として,徹底的に学習されるべき理由は,まさにこの点にある。
学校教育に法教育が必要とされる議論に「だめ押し」ともいえる根拠を与えたのは,先に述べたように,2004年5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し,2009年5月21日から裁判員制度が開始されたことであろう。
従来の裁判においては,判決を下すのは,最難関といわれる司法試験に合格し,その上で一定の研修を受けて専門家と認められた裁判官であった。裁判官とは,いわば,法律の素人とは対極にある人々であった。ところが,新しく導入された裁判員制度の下では,重大な刑事事件(殺人,強盗致死傷,傷害致死,危険運転致死,現住建造物等放火,身の代金目的誘拐,保護責任者遺棄致死など)に限定されるとはいえ,国民のうちから法律の素人である6名が無作為に選ばれ,裁判員として判決を下す側に回ることになった。すなわち,素人である裁判員が,「被告人が有罪かどうか,有罪の場合どのような刑にするか」について,専門家である3名の裁判官と一緒に評議し,評決を下すことになったのである。
素人である裁判員に専門家である裁判官と同等の権限を与えたのは,素人のもつ「健全な常識とものの考え方」に信頼を置いているからであり,そこに裁判員制度の画期的な点がある。しかし,裁判員制度を持続させていくためには,国民の法律に関する健全な常識と,法的なものの考え方を形成・強化するための法教育が不可欠の前提となる。裁判員の重要な役割である「事実認定」は,実は,法律の条文に即して行われ,必然的に法律の推論(解釈・あてはめ)が介在するのであるから,裁判員が職務を全うするためには,「法律に関する常識と推論に関する知識」が不可欠となるからである。裁判員の役割は,事実認定と量刑だけだから,「法律の知識はなくても,裁判員としての職務は全うできる」というのが公式の見解であるが,先に述べたように,それは,あくまで建前に過ぎない。
人の生死まで左右するほどの重要な刑事事件について,裁判所の最終的な判断である評議・評決に,素人である裁判員が加わることになったのであるから,学校においてレトリックに基づく法教育が推進されるべきであることは,少なくとも,理論としては,もはや争うことができない事態となったといえよう。
それにしても,裁判員制度において,なぜ,素人である裁判員が専門家である裁判官と同等の地位を占めることが可能とされたのであろうか。これが,今後の社会のあり方を考える上での最大の問題,すなわち,素人と専門家とは,どのように関わっていくべきなのかという問題である。この問題は,突き詰めていくと,「素人主権」か「専門家主権」かという,民主主義の根本問題に帰着する。すなわち,民主政治においては,素人の意見を参考にしつつ,最終的には専門家が決定を下すべきなのか(専門家主権),それとも,専門家の意見を参考にして最終的には素人が決定すべきなのか(素人主権)という重大な問題である。
この問題を,裁判員制度に即して考えてみよう。まずは,裁判官の専門性の問題である。裁判官は,殺人,放火,誘拐,遺棄等を犯した人を裁く側であって,事件の内容である殺人の専門家ではありえない。また,放火,誘拐,遺棄等の専門家でもない。
確かに,日本国憲法76条3項は,裁判官の職務について,「すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定している。すなわち,裁判官は,一応は,日本国憲法と法律の専門家と考えることができる。
憲法 第76条(司法権,特別裁判所の禁止,裁判官の独立)
@すべて司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
A特別裁判所は,これを設置することができない。行政機関は,終審として裁判を行ふことができない。
Bすべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される。
しかし,裁判官といえども,六法を調べて判決を下すのであって,すべての法律を暗記したり,知ったりしているわけではない。そうだとすると,事件の内容についての専門家でもなく,すべての法律の専門家ともいえない裁判官とは,何の専門家なのであろうか。
そのヒントは,「司法試験法」という法律に示されている。裁判官,検察官,弁護士は法曹といわれており,最難関といわれる司法試験に合格した人々であるから,裁判官が何の専門家であるのかは,裁判官になるために突破しなければならない司法試験で何が試されているかを理解すれば足りる。
六法を開いて,「司法試験法」を調べてみよう。司法試験法3条によれば,司法試験の受験者は,一定の科目(公法,司法,手続法等)について,短答式と論文式という2つの筆記試験によって,その学力を試される。そして,学力の判定基準は,短答式試験では,「専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうか」(3条1項)であり,論文式では,「専門的な学識並びに法的な分析,構成及び論述の能力を有するかどうか」(3条2項)である。そして,いずれの試験においても,「知識を有するかどうかの判定に偏することなく,法律に関する理論的かつ実践的な理解力,思考力,判断力等の判定に意を用いなければならない」(3条4項)ことが明記されている。
司法試験法 第3条(司法試験の試験科目等)
@短答式による筆記試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とし,次に掲げる科目について行う。
一 公法系科目(憲法及び行政法に関する分野の科目をいう。次項において同じ。)
二 民事系科目(民法 ,商法 及び民事訴訟法 に関する分野の科目をいう。次項において同じ。)
三 刑事系科目(刑法及び刑事訴訟法に関する分野の科目をいう。次項において同じ。)
A論文式による筆記試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な学識並びに法的な分析,構成及び論述の能力を有するかどうかを判定することを目的とし,次に掲げる科目について行う。
一 公法系科目
二 民事系科目
三 刑事系科目
四 専門的な法律の分野に関する科目として法務省令で定める科目のうち受験者のあらかじめ選択する一科目
B前2項に掲げる試験科目については,法務省令により,その全部又は一部について範囲を定めることができる。
C司法試験においては,その受験者が裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を備えているかどうかを適確に評価するため,知識を有するかどうかの判定に偏することなく,法律に関する理論的かつ実践的な理解力,思考力,判断力等の判定に意を用いなければならない。
そうすると,司法試験法3条によって明らかにされている法曹(裁判官,検察官,弁護士)に必要とされる専門的な能力とは,つまるところ,「専門的な法律知識」と「法的な推論能力」であることがわかる。しかも,法律知識よりも,むしろ推論能力が重要であることが示唆されている(3条4項)。このように見てくると,裁判官は何の専門家であるかがわかる。裁判官とは,「専門的な法律知識」と「法的な推論の能力」の持ち主であり,端的に言えば,「法律知識」に基づく「法的推論」の専門家であるということになる。
第1の「法的知識」については,六法全書や法律の専門書をひもとけば,素人にも理解できないものではないし,具体的な事件に必要な法律知識は,条文で言えば数箇条,多くとも,数十箇条にすぎず,専門家である裁判官から説明を受ければ,素人にも理解可能であろう。
問題は,第2の「法的推論」とは何かである。「法的推論」については,六法全書にも出てこないし,法律の専門書を見ても,詳しい解説は述べられていない。
しかし,アメリカでは,法的推論とは,アイラック(IRAC(Issue(争点),Rules(ルール),Application(適用)/Argument(議論),Conclusion(結論))と呼ばれる法律家の思考方法であることが明らかにされており,わが国でも,そのように考えることに反対する意見はない。ここでいう,法律家の思考方法としてのアイラック(IRAC)とは,以下に示すような,法律家の一連の思考プロセスである[加賀山・学習法入門(2007)33-47頁]。
上記のアイラック(IRAC)のような考え方は,確かに,法律家に特有の考え方ではあるが,その原型は,古代ギリシャで発展した弁論術([プラトン・ゴルギアス],[プラトン・パイドロス,266D〜274B])であり,その後,アリストテレスによって理論化されたレトリック(弁論修辞術)の中の配列法(タクシス)に該当するものである。つまり,法律家の思考方法であるアイラック(IRAC)は,レトリックのうち,法律に特化されたものであるから,一般市民がレトリックをマスターすれば,法律家との議論は,法的な推論の面の点では,スムーズにかみ合うことになる。
法律家の有する専門知識とは,「専門的な法律知識および法的な推論の能力」(司法試験法3条)である。これらの知識は,レトリックの考え方を法的思考に適合するように特化し,洗練したものであることは,すでに述べた。また,先に述べたトゥールミン図式は,法廷弁論を念頭に置いて,法律の議論だけでなく,ありとあらゆる議論のプロセスをデータ,論拠,裏づけ,様相限定詞,反論,主張という6つの要素を使って図式化できるように一般化されたものである[トゥールミン・議論の技法(2011)10,15,59,142頁]。
したがって,トゥールミン図式の分かり易さを生かしつつ,アイラック(IRAC)に適合するように,トゥールミン図式を法律家向けに洗練させることによって,法教育の教育効果を一気に向上させることが可能となる。トゥールミン図式をアイラック(IRAC)を踏まえて法律家のために特殊化することは,法教育を行うという観点だけでなく,専門家にとっても以下のように大きな意味を有する。
以上の観点,および,新しい要件事実論([加賀山・新しい要件事実論の必要性(2010)23-49頁],[加賀山・新しい要件事実論の構築(2012)])をも考慮して,トゥールミン図式を筆者の専門である民事の議論に特化した図式を示すと以下のようになる。
*図4 トゥールミン図式の特殊化(法的議論のモデル図式) アイラック(IRAC)の考え方によってトゥールミン図式を特殊化したもの 「裏づけ」が「反論」をも支えており,合意形成に資するように,原型が修正されている。 |
上記の図は,トゥールミン図式が曖昧とされてきた,W:推論保証(論拠)とB:裏づけとを明確に区別し,かつ,B:は,R:反論の裏づけとしても有用なものであることが示されている点に特色がある。紛争の解決が,当事者にとっても,専門家にとっても,また,世論にとっても納得がいくためには,当事者双方の主張と反論とが共通の裏づけによって等しく理由づけられている場合だからである。
法教育で重要なことは,具体的な事実(D)を憲法または法律の条文(W)に則って解決するという道筋を理解することであるが,その際に,同じ事実から反対の結論を導くルール(R)が存在することを認識することが重要である。健全な常識には,常に反論が用意されている。たとえば,「善は急げ」と「急がば回れ」とが対立しており,「渡る世間に鬼はなし」と「人を見たら泥棒と思え」とが対立している。一文自体が矛盾しているものも多い。たとえば,「負けるが勝ち」,「損して得取れ」,「毒をもって毒を制す」,「敵の敵は味方」などである。法律の条文は,なお,重複する条文や,相互に対立・矛盾する条文を抱えているとはいえ,詳しい前提条件をまとうことによって,このような対立・矛盾を極限まで押さえ込んでいる。上記のようなトゥールミン図式の特殊化が可能であるのは,法が閉じられた体系を志向し,これにある程度成功しているからである。
ある学問の特化は,必然的に他の部分をそぎ落とすことを意味し,一定の発展を遂げた後は,そぎ落とした部分の欠落が理由となって欠陥を露呈 するに至る。それでは,法律学は,レトリックやトゥールミン・モデルのうちの,何をそぎ落としたのか。そのことを知るためには,アリストテレス以降の発展を考慮した以下のような レトリックの全体像を見る必要がある([浅野・論証のレトリック(1996)64−65頁の折り込み図],[野内良三・レトリック入門 (2002)4−52頁]参照)。
法的推論が利用しているのは,上記のT1Bの法廷弁論,U修辞法,V配列法である。そうすると,法的推論には,第1に,T1A,Cの審議弁論,演示弁論が欠落しており,第2に,T2,3のエートスとパトスに訴える説得立証法が欠落していることがわかる。
これに呼応して,法的推論は,第1に,将来の問題を利害に基づいて論じるのは不得意である。将来に関する差止訴訟に対して裁判所が煮え切らない判断に終始しているのは,このためであり,最近では,「法と経済学」がこの問題に挑戦している。第2に,法的推論は,恐れ,怒り,愛・憎といった人を突き動かす感情を推論に生かすことに成功していない。これらの問題を巧みに取り入れているレトリックを学んでいる市民の常識による推論は,法的推論が陥りやすい点を批判し,修正することが期待できる(エートスとパトスに訴える説得立証法の具体例については,[香西・修辞的思考(1998)17-71頁]が,シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』を例にとって,ブルータスのエートスに訴える説得方法に対して,アントニーがパトスに訴える説得方法によって対決する場面をレトリックの立場から丁寧に解説しており参考になる)。
レトリックの強みは,法律に限らず,すべての分野における議論のあり方に及んでいるという点にある。レトリックには,これまで述べた法廷弁論以外にも,将来の問題について利害得失の観点から政策を論じる立法技術(審議弁論)や,現在の問題について,徳のある行為を賞賛し,不徳を非難するスピーチの技術(演示弁論)という3部門を有している(詳細は,[浅野・論証のレトリック(1996)64−65頁の折り込み図]参照)。
しかも,レトリックには,説得と議論の分野(ピスティス)と並んで,先に述べたアイラック(IRAC)のような配列法(タクシス)があり,その他にも,修辞法(レクシス)という分野が存在している。そこでは,「花」といって,花の中の「桜」だけに縮小・限定したり(「花見」がその例),「花」といって,花以外の「風流なもの」全体に拡大したり(「花より団子」がその例),「花」といって,植物や動物の範疇を超えた「気高さ」という概念を類推したりする(「彼女は高嶺の花だ」)など,法律学の醍醐味とされる,「縮小解釈」,「拡大解釈」,「類推解釈」というような法解釈学の考え方の基礎がしっかりと分析・解明されている(詳細は,[野内良三・レトリック入門(2002)54−125頁]参照)。
そればかりか,レトリックは,説得のあり方についても,説得の技術に関する3部門(審議弁論,法廷弁論,演示弁論)のように,ロゴス(論理)に訴えるものだけでなく,説得する側のエートス(品格)に訴えるもの,相手方のパトス(感情)に訴えるものというように,議論と説得に関するあらゆる技術を包含している([浅野・論証のレトリック(1996)68−69頁,120−132頁])。したがって,現代において,説得力が求められるあらゆる場面においてレトリックの技術を使えば,その力強さが増すことになる。
たとえば,サラリーマンが,会社でプレゼンテーションをする際にも,レトリックのうちの配置法(法律学におけるIRACに該当する)を利用することが有効である。意欲だけが先走って,いいたいことを思いつくままに並べ立てても,聞き手を説得することはできない。言いたいことを,以下のような順序に従い,予想される反論にも配慮して話した方が,聞き手にとってわかりやすく,納得の得られる方法であることは明らかであろう。
このようなプレゼンテーションの順序に関する法則(配列法)が発見されるまでに,人類は何千年もの間,試行錯誤を続けてきたのである。今から考えれば,後知恵で,議論の順序などたいした工夫ではないと思われるかもしれない。しかし,この配列法が発見された当時は,この配列法(1.序論,2.本論(論証と議論),3.結論)を教えるだけで莫大な収入が得られるほどに価値の高いものだったのである。
頭に浮かんだことをそのまま喋り散らしていた人々の中にあって,コラクス〔初期のソフィスト〕は,話を明晰にするためにそれを「構成」することを思いついたのである。この程度の簡単な技術であっても,それは普段の言語使用から自然に生み出されるものではなく,技術として定式化されるためには一人の「天才」が必要だったのだ。その意味で,彼らは確かに,高額の報酬にふさわしい技術をもっていたと言っていい[香西・論争と詭弁(1999)178-178頁]。
これらのソフィストたちが開拓した知見をレトリック(弁論修辞術)の一部に組み込んで理論的に集大成したのが,アリストテレスにほかならない(弁論術の職業的教師としてのソフィストの功績については,[田中・ソフィスト(1976)],[ロメイエ=デルベ『ソフィスト列伝』(2003)],[納富・ソフィストとは誰か(2006)]参照)。このように考えると,レトリックは,素人や専門家を問わず,意見の異なる人々が説得を通じて合意形成に至るための平和的な解決方法として,人類が獲得した無形の世界遺産であり,現代社会においても,その有用性は大きいといわなければならない。
先に述べた裁判員制度の話題に戻ることにしよう。裁判における評議の過程で,レトリックをマスターした市民たちの健全な常識が裁判官の専門的な法的知識によって補充・修正されるならば,一般市民である裁判員も,レトリックの技術を使って,裁判官と同様の,もしくは,裁判官も顔負けの推論によって,見事な法的結論を導くことが可能となる。そればかりか,法律の専門家が陥りやすい常識からかけ離れた議論や,論理だけで突っ走ろうとする議論に歯止めをかけ,常識と法律知識とを融合しながら,市民が納得できる結論を導くことも可能となる。6人の裁判員がレトリックの知識に習熟していれば,少なくとも,議論する場合の共通のマナーに基づいて,裁判員(素人)同士の間でも,また,裁判員(素人)と裁判官(専門家)との間においても議論がスムーズに行われることが期待できる。
法律家に特化された法律知識に基づく思考方法であるアイラック(IRAC)と市民の常識に基づく思考方法(レトリック)とが,コミュニケーションを経て交錯する過程においてこそ,今までの裁判で見落とされてきた推論の誤りが発見されたり,検察官と裁判官とのなれ合いから生じる冤罪事件に対する改善が進んだりすることが期待できるのである。裁判員制度の画期的な点は,まさに,素人と専門家の協働によってお互いの欠点を克服しようとする点にあるといえよう。
これまでの議論を通じて,初等教育の場である学校において法教育を行う必要性を,インターネット社会の現状,および,裁判員制度が実現されたことによる法律専門家(裁判官)と素人(裁判員)の協働の必要性から明らかにすることができた。さらに,法律専門家と素人が協働するためには,素人も,法律専門家の思考方法の源流となっている常識に基づく説得の技術としてのレトリックを習得することが必要であることを明らかにすることができた。このことによって,学校教育においても,レトリックに基づく法教育を行うことの意義と必要性が明らかになったと思われる。そこで,以下では,学校において,レトリックに基づく法教育をいかに実現していくべきかについての方法論を論じることにする。
法教育の目的は,素人に紛争を平和的に解決する能力(「紛争解決能力」という)を身につけさせることである。この能力は,広い意味では問題解決能力に属する。一般的には,問題解決能力は,次の3つのステップを踏むことによって教育することができる。
このように,広い意味での問題解決能力は,体系的な公式がある場合には,適切な問題を与え,問題と公式との結びつきを理解させることによって教育することができる。例えば,数学の方程式の応用問題は,問題を等式に置き換える能力,等式の解を計算によって求める能力を身につけさせれば,どんな問題でも解けるようになる。このように,基礎教育とされている「読み書きそろばん」,すなわち,読み書き(国語,外国語),そろばん(算数),そして,理科(科学)が初等教育段階で可能であるのは,応用問題を解くことができる公式がほぼ確立しており,それに依拠して教育することができるからである。
しかし,法教育においては,問題を解決すべき公式(法原理,法ルール)が未だに体系化されておらず,現行法令だけでも1,864(憲法1,法律1,863)の数があり(2012年1月1日現在),それぞれの法令の条文の数に至っては,教育可能なオーダーを遙かに超えている。その上に,複雑な問題の場合には,適用すべき法律がない場合も存在する(いわゆる法の欠缺問題)。法教育においては,そのような場合でも,当事者,専門家,世論の三者をともに納得させる解決案をまとめる能力を身につけさせなければならない[ペレルマン・法律家の論理(1986)316頁]。これまで,法教育が初・中等教育で行われなかった第1の理由はこの点にある。
学校で法教育を実施しようとすると,第2に,対象である法をどのように捉え,どのように教育したらよいのかわからないという,法教育自体の困難さにぶつかる。第3に,法を教えることができる教員の絶対的不足という困難な問題にぶつかる。第4に,法に興味を持たないか,むしろ,法自体を毛嫌いする学習者が多く,興味を引きつける教育が困難であるという問題にぶつかる。学校で法教育を行うに際しては,このような四重苦の状態を克服する必要がある。
従来は,法教育は,大学の法学部において実現されてきた。法学部における法教育においては,典型的な法としての六法(憲法,刑法,民法,商法,民事訴訟法,刑事訴訟法)の1つをとっても,それが,特別法によって複雑に分岐しており,しかも,それぞれが,複数の分野に分かれ,専門化している。たとえば,私法の基本法である民法を例にとっても,それは,総則,物権,債権,親族,相続という5編に分かれており,大学では,それぞれの分野ごとに異なる教材を使って,複数の専門家によって教授されるというのが通常である。すなわち,法学部においても,法はいくつもの専門分野に細分化されており,法全体の考え方を教えることができるほどの体系化は実現していない。
したがって,学校において,一人の教師が膨大な分野を抱える法全体について教育しようにも,法全体を解説した教材が少ない上に,法全体に関する教材は,抽象的な解説にとどまるため,学習者が興味を持つことができない。反対に,学生が興味を覚える具体的な問題を取り上げようとすると,極度に専門的な知識が必要とされ,それを専門家以外の教員が教えることは困難であるというジレンマを抱えていた。
このようなジレンマを解消するためには,狭い分野であるが,法の考え方を会得するのに適切な1分野を選択し,生徒が興味を持つ事例問題をその分野の知識だけを使って解くことができるような設計をせざるを得ない。しかし,そのように割り切ることができれば,学校においても法教育を実現することは不可能ではない。
参考までに,裁判において,どのような条文が適用されているかを調査してみると,裁判では,民法の条文が最も多く適用されており,その中でも,民法709条が圧倒的な適用頻度を記録していること(民法全体の判例のうち,約23パーセントが民法709条を適用した判例である),民法709条を中心とする不法行為に関する10の条文だけで,民事裁判のほぼ3分の1をカバーすることがわかっている。
しかも,不法行為は,過去の事件の不正を問題にする点で,刑事事件とも連続性がある。さらに,被害者の救済という点で,紛争の平和的な解決という法の目的を考える上でも有用である。したがって,不法行為に関する適切な事例(たとえば,食中毒事件,学校事故,交通事故,医療過誤事件等の身近な事件)を選んで問題を作成することは,法の神髄を理解することに通じる。
もしも,このような不法行為に関する事例問題を有名な判決(有名な判決は,別冊ジュリスト・民法判例百選TU,家族法判例百選に詳しく紹介されている)を手がかりに作成すれば,生徒は,わずか10程度の条文を理解する作業,および,レトリックに基づく法律家の思考方法(IRAC)をマスターするだけで,そのような問題をきちんと解き,その結果を理由とともにプレゼンテーションすることが可能となる。そして,2つのチームに同一の問題を解かせて,反対の結論が出るように誘導すれば,模擬法廷における法廷弁論の域にまで達することも夢ではない。
従来の教育は,教える側(教師)と教えられる側(学習者)とを区別し,教える側が主導権を握って,学習者に知識や技術を授けるという方法を採用してきた。この方法は,一定の成果を上げてきたが,教える側が権威者ではなく,アドバイスをすることができるに過ぎないという場合には,教育効果が期待できない。また,権威者による教育の場合には,学習者がその教育に対応できず,消化不良を起こすという弊害を生じてきた。
この点を克服する方法が,教師と学習者の垣根を取り去り,教師が教える時間を一定部分に抑え,残りの部分を学習者がプレゼンテーションをし,教師と他の学習者とで議論を交わし,プレゼンテーションの中で生じた誤りを正すとともに,優れた部分を賞賛することによって,学習意欲と学習効率を高めるという方法である。
そのような教育モデル(プレゼンテーション学習法)は,教師が,綿密な授業カリキュラムとシラバスを作成した後に,その何割(2割〜5割)かをあえてカットし,カットした時間を学生に与えるという発想の逆転(「学ばせるには,教えさせるのがよい」という逆説的な考え方)に基づいている。具体的には,単元のまとまりがついた時期ごとに,学生(少人数教室の場合は,1人〜3人まで,大人数教室の場合には,3人〜6人までのグループ)に授業時間内でのプレゼンテーションを義務づけるという方法をとる。
全員の前でプレゼンテーションをするという責任を与えられた学生たちは,消極的な学習から積極的な学習方法に移行せざるをえない(教えようと思えば学ばざるを得ない)。そして,教師ばかりでなく,学生からの評価にさらされるという緊張感の下で,評価に耐えうる学習成果を出すという目標に向かって,お互いに試行錯誤を重ね,その結果,自然の成り行きとして,最高の学習方法(自学自習)と,さらに,最高の教授方法(説得的なプレゼンテーション)とを習得するに至る。
最新の授業方法とされているソクラティック・メソッド(教師と学生との対話方式),および,多方向性授業(学生と学生とで議論させる)という方法は,確かに,一方的な講義方法と比較するならば,格段に優れた方法である。しかし,限られた時間の中で,すべての学生が,目標としている学習到達目標に向かって学習を重ねているかどうかを判断するという観点で考えた場合には,個々の学生が,知らないうちに陥っている誤った知識,誤った推論方法を確実に矯正できる方法は,学生自身にまとまりのあるプレゼンテーションをさせる方法しかない。これまでの経験からしても,このような授業モデルを採用した方が,従来の授業モデルよりも,学生同士のコミュケーションが向上するばかりでなく,授業に対する参加意識,および,満足度が格段に向上するからである。
以上の考察を通じて,法教育の方法論については,一定の方向性が示されたと思われる。確かに,すでに述べたように,方法論は重要である。しかし,それに内容が伴わなければ,方法論は空虚なものに成り下がる。そのことを思い知らされる事件がある。2010年11月14日に柳田稔法務大臣が就任祝賀の国政報告会で行った問題発言である。その発言内容を要約すると以下の通りである[今村守之・問題発言(2011)233-234頁]。
法務大臣というのはいいですね。2つ覚えておきゃいいですから。
- 個別の事案についてはお答えを差し控えます。
- これがいいんです。分からなかったらこれを言う。あとは
- 法と証拠に基づいて適切にやっております。
この2つです。まぁ何回使ったことか。
このことは,官僚の書いた常套句だらけのペーパーを読み上げ,以上の2つの「魔法の言葉」を繰り返しておけば,法務大臣が務まるということを意味する。
法務大臣は,国の利害を有する訴訟について国を代表する権限を有し(国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律第1条),検事総長に対する指揮権を有し(検察庁法14条),死刑執行命令を下す権限を有する(刑事訴訟法475条)という重要なポストである。そのような重責を担う職務であっても,上記のような方法論のタネ明かしをせずに,重々しく「魔法の言葉」を発し続けておれば,法務大臣の職責が全うされたのではないかと思われる。したがって,内容のない空虚な方法論であっても,表面を取り繕うだけならば大いに効果があるといえる。
しかし,大切なのは,方法論に裏づけられた内容であろう。方法論だけで内容が伴わないことが暴露された法務大臣が辞任に追い込まれたように,内容に裏づけられなければ,方法論は無力である。
法教育の内容に関しては,法律家に必要とされる資質とは,第1に「法的知識」,第2に「法的推論の能力」であった(司法試験法3条参照)。この2つの能力を刑事裁判員だけでなく,将来に予想される民事裁判における裁判員に必要とされる資質を想定して,それに耐えうる程度に法的知識と法的推論の能力をレベルアップすることが法教育の当面の到達目標ということになる。そこで,本稿の最後の課題は,法教育の内容について何を選択すべきかである。
法教育の内容としては,第1に,解決すべき事例に適用されるべき「論拠」としての重要な法律の条文と,それが全ての人を拘束する理由としての「裏づけ」に関する「法的知識」を取り上げる。そして,第2に,「法的知識」を使って事案を解決するための「法的推論」の型として,「定義による推論」,「類推による推論」,「譬喩による推論」,「より強い理由による推論」,「因果関係による推論」の6つを取り上げることにする。
柳田元法務大臣の暴露によって,法務大臣は,上記の「魔法の言葉」(@個別の事案についてはお答えを差し控えます。A法と証拠によって適切にやっております)を使うことができなくなってしまった。 すぐに答えが出ない場合には,以下の順序によって考えてみるとよい。
|
法教育の内容の第1としての法的知識は,単に法の体系や法律の条文を学ぶだけでなく,法はなぜ必要なのか,法の目的は何か,法が全ての人を拘束するのはなぜなのか,法が憲法に反すると無効となるのはなぜなのかというすべての疑問に答えることのできる統一的な考え方を理解する必要がある。これが,「法的知識」の第一歩となる。このような前提知識を理解できるならば,具体的な問題に適用されるべき条文についても,その条文は,問題を解く「論拠」となるのであるから,その条文がなぜ全ての人を拘束するのかというその「裏づけ」についても理解することができるようになり,当事者も専門家も世論も納得させることができるような解決法を生み出す技術を習得することができる。
法に関する名著の誉れ高いイェーリンク(Rudolf v. Jhering)『権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)』(1925)([イェーリング(小林=広沢訳)権利のための闘争(1978)21頁])の書き出しは,以下のような文章で始まっている。
法の目標は平和であり,これに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害に備えなければならないかぎり−しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう−,法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは,国民の,国家権力の,階級の,個人の闘争である。
世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり,すべての重要な法規はまず,これを否定する者の手から奪い取られなければならなかった。国民の権利であれ,個人の権利であれ,およそ一切の権利の前提は,いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて,生きた力である。だから,正義の女神は,一方の手には権利をはかるはかりをもち,他方の手には権利を主張するための権を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり,剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し,正義の女神の剣をふるう力と,そのはかりをあつかう技とが均衡するところにのみ,完全な法律状態が存在する。
「権利のための闘争」の最初の書き出しは,第1に,「法の目標と手段」とを最も短いフレーズで的確に表現しており,第2に,「平和と闘争との対比」が見事である。このため,記憶に残りやすい名コピーとして,法律家に親しまれている。これが,法の発展の歴史の一面を示していることは確かであるし,グローバル・スタンダードなのかもしれない。
しかし,「闘争」が武力を用いた闘争を含むものであるとしたら,真の平和がもたらされる保証はない。なぜなら,武力による解決は,結局,当事者の納得を得られないため,闘争の繰り返しになる危険性が高いからである。そうだとすれば,法の目標だけでなく,法の手段も平和でありたいものである。
この点,わが国は,不幸な戦争を体験した反省に立って,紛争解決の手段としての武力の行使を放棄した世界でも数少ない国である。日本国憲法(1946年)第9条は,以下のように,紛争解決の手段として武力を用いないことを宣言している。
憲法 第9条〔戦争の放棄〕
@日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
A前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。
日本国憲法第9条については,戦勝国の押しつけであるとの反論があり,現在でも,改正論議が盛んである。しかし,わが国の最初の憲法とされる十七条の憲法(604年)も,「国のかたち」として,紛争の解決について,武力ではなく,議論によるべきことを明文で定めていた(十七条の憲法の現代的解釈については,[岡野・十七条憲法を読む(2003)]参照)。十七条の憲法というと,最初のフレーズである「和をもって貴しとなす」だけが引用され,武力ではなく平和に「事を論ずるにかなうときは,すなわち事理自ずから通ず」という,後半部分が引用されないのは,何とも不幸なことである(最近の法教育の成果報告書である[大村=土井・法教育のめざすもの(2009)3頁]も,「和をもって貴しとなす」を法教育の阻害要因とみている)。
十七条の憲法 第1条〔和の精神〕
和をもつて貴(とうと)しとなし,忤(さから)うことなきを宗とせよ。
人みな党(たむら)あり,また達(さと)れる者少なし。ここをもつて,あるいは君父に順わず,また隣里に違(たが)う。
しかれども,上和(かみやわら)ぎ,下睦(しもむつ)びて,事を論ずるに諧(かな)うときは,すなわち事理(じり)自ら通ず。何事か成らざらん。
第10条〔仏教の教え:議論の前提条件〕
心の怒りを絶ち,顔色に怒りを出さないようにし,人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。
人には皆それぞれ心があり,お互いに譲れないところもある。彼がよいと思うことを,自分はよくないと思ったり,自分が良いことだと思っても,彼の方は良くないと思ったりする。
自分が聖者で,彼が愚者ということもない。ともに凡人なのである。
是非の理は誰も定めることはできない。お互いに賢者でもあり愚者でもあることは,端のない環のようなものだ。
相手が怒ったら,自分が過ちをしているのではないかと反省する。自分一人が正しいと思っても,衆人の意見も尊重し,その行なうところに従うがよい。
日本国憲法が成立する1450年も前に,わが国に,すでに,「平和憲法」があったことは驚きである。それと同時に,この十七条の憲法を現代の憲法と比較しつつ再評価することは,興味深い試みであると思われる。筆者は,日本国憲法の趣旨を生かして,十七条の憲法の第1条を以下のように解釈している。
十七条の憲法 第1条〔和の精神〕の日本国憲法流の解釈(加賀山説)
平「和」を誠実に希求し,正義と秩序を尊重して武力に訴えることのないようにせよ。
紛争の解決を力に頼る人は,みな数を頼んで党派を作る。しかし,力や数では問題の真の解決にはならないことを理解していない。
このような人々は,多数に雷同してリーダーに従わなかったり,相隣関係における「必要かつ損害最小」の原理を無視したりする行動に出る。しかし,
上司も和やかに部下も睦まじく,「輪」になって議論を行えば,自然に道理が明らかになり,どんな困難な問題でも解決できないことはない。
このように考えると,わが国においては,「法の目的は平和であり,その手段も議論を通じた説得である」ということができる。
以上の「和の精神」に関しては,「和」と「雷同」とを厳しく区別する必要があると思われるので,補足をしておくことにする。
十七条の憲法の第1条の原文には,出典として「孔子」と書かれている。おそらく,論語の「君子は和して同ぜず,小人は同じて和せず」を意識して起草されたものと思われる。「和」とは,問題解決に際して,上は和やかに,下も睦まじく話し合い(第1条),意見が違うからといって怒ったりしないこと(第10条)を意味する。これに対して「同」とは,「付和雷同」のことであり,自分の考えで行動するのではなく,多数の人がそうしているから正しいと考えて同じ行動をすることを意味する。しかし,「多数の人が賛成しているから正しい」という論理は,論拠として使うことはできないとされている。その理由については,[岩田・議論のルールブック(2007)18-19頁]が,的確な指摘をしているので,原文のまま引用する。
単に「賛成する人が多いからといってそれが正しいとは限らない」と言えば,皆その通りだと言うでしょう。しかし実際には,自分でも気づかずに「多くの人が賛成するから正しい」という論理を使ってしまう人が多くいます。こうした勘違いが多いのは,この論理の逆である「正しいことには多くの人が賛成する」がおおむね正しいことによります。
正しい観察によって得られた事実からしっかりした論理展開によって導き出された結論には,多くの人が賛成します。だから,傾向として,正しいことと多くの人が賛成することには相関関係があります。もし,多くの人が賛成することと少しの人しか賛成しないことのどちらかを正しいこととして受け入れなくてはならなくなったとしたら,多くの人が賛成することを受け入れる方が,正しい可能性は高くなります。つまり,「賛成する人の数が多ければそれは正しい可能性が高い」というのは事実なわけです。
しかし,このことは,他の人がきちんと事実や論理展開を見極めて導き出したという仮定のもとでのみ成り立ちます。「賛成する人が多いから賛成しておこう」と思って賛成している人が多いと,その前提が崩れてしまいます。「多くの人が賛成しているから正しい」という考え方をもとに賛成してしまうことは,誤った結論を導く可能性を増大させるだけです。この考え方は自己矛盾を含んでいるのです。だからこそ,多くの人が賛成しているから正しいという論理は,たとえその結論が正しくても,使ってはいけないのです。
十七条の憲法の「和の精神」に従っていると感じている日本人が多いにもかかわらず,「和」とは対極にある「付和雷同」型の人が日本人に多いことは,以下のような,世界でよく知られたジョークに表れている[石井・フランス的思考(2010)4-5頁]。
確かに「日本人には付和雷同型の人間が多い」という通念はかなり定着しているようで,火災に見舞われた豪華客船の乗客を海に飛び込ませるには「皆さん飛び込んでいますよ」といえばいいという有名なジョークがあることは,知っている人も多かろう。…(中略)…
ちなみにイギリス人には「紳士は飛び込むものです」,フランス人には「飛び込んではいけません」,ドイツ人には「命令だから飛び込みなさい」,イタリア人には「さっき美女が飛び込んだぞ」といえばいいとされていて,実によくできたジョークだと感心させられるが,実際にどの言葉に反応して飛び込むか(あるいは飛び込まないか)は,国籍を問わず十人十色にちがいない。
なお,このジョークには,以下のような後日談がある。
豪華客船の火災の鎮火後,全員が救助され,的確な避難指示を行った船長に対する記者会見が行われた。船長と日本人記者との間で以下のようなやりとりがなされた。
記者:船長の避難指示はお見事でした。おかげで日本人10名は,火傷もせず無傷で無事救助されました。ところで,1つ質問があります。いくら日本人と言っても,「皆さん飛び込んでいますよ」と言ったからといって不和雷同する人ばかりではないと思いますが,どうだったんでしょうか?
船長:その通りだ。「皆さん飛び込んでいますよ」という私の最後の言葉で飛び込んだ日本人は半数に満たない4人だけだった。
記者:ということは,残りの6人は船に残っていて救助されたのですか?でも,日本人10人全員が海に飛び込んで救助されたと聞いていますが。
船長:確かに,日本人全員が海に飛び込んだ。しかし,最初の指示でイギリス人と一緒に飛び込んだ日本人はいなかった。
記者:ありゃりゃ。紳士になりたい日本人はいなかったのでしょうか。では,6人の日本人はどうしたのですか。
船長:最初に飛び込んだ日本人は,利発そうな美人だった。「飛び込んではいけません」という私の指示で,フランス人と一緒に飛び込んだ。
記者:ほう。それで,次に飛び込んだのは?
船長:元気いっぱいの若者と脂ぎったおじさんだった。「美女が飛び込んだぞ」と言われて,イタリア人と一緒に飛び込んだ。
記者:残りの3人はどうでしたか?
船長:まじめで気のよさそうな人たちだった。「命令だから飛び込みなさい」という指示で,ドイツ人と一緒に飛び込んだ。
では,最後に船長に「皆さん飛び込んでいますよ」といわれて飛び込んだ4人の日本人はどのような人たちだったのだろうか。この続きは読者の想像に任せることにしよう。
さて,上記のジョークとは裏腹に,十七条の憲法にせよ,日本国憲法にせよ,「和の精神」をもって国家戦略の要としている国は,世界でも珍しく,わが国のユニークな特色となっている。まさに,「和の精神」は,「和して同ぜず」という点に意味があるのであって,議論の前提としての「和の精神」と議論を避けて多数を頼みとする「付和雷同」とは異なることを再度確認する必要がある。
人間は社会的動物であるとともに,感情の動物でもあるから,「和の精神」があるからといって,怒りにまかせて振る舞うことがあることを否定することはできない。しかし,怒りにまかせた行動でもって問題が解決されることはないと覚るべきである。問題を真に解決するためには,当事者が冷静になったときにも納得できる合理性を有していなければならないからである。そして,当事者双方が納得する合理的な解決策というのは,「当事者」,「専門家」,「世論」の三者を納得させることを目指した場合に達成されることが多い([ペレルマン・法律家の論理(1986)316頁]参照)。そして,そのような納得を得るためには,誰も争わない原理・原則から冷静に(和をもって)議論を積み重ねていくほかないのである。
それでは,誰もが納得する原理・原則というものは存在するのであろうか,あるとして,それはどのようなものなのであろうか。これが,法の内容の限界についての重要な問題である。
次に検討する「法の支配」でも述べることであるが,全てを支配する法といえども,その内容には限定がある。全ての人が従わなければならないということは,その前提として,法は,誰もが争うことのできない原理から出発しなければならないことを意味している。それでは,誰もが争うことができないものとして前提としている法の原理とは,何であろうか。
その出発点は,人間が一人では生きていけない社会的な動物であるということにある(アリストテレス)。そして,人間が他人との社会関係を良好に保つためには,当事者同士(契約),近隣同士(相隣関係),一定の地域(地方自治),国民全体(憲法,法律),世界(国際法)というように,その範囲に広狭はあるが,その範囲内のすべての人が従うべきルールが必要なのである。文部科学省の新学習指導要領(社会・公民的分野)においても,以下のように記述されている。
人間は本来社会的存在であることに着目させ,社会生活における物事の決定の仕方,きまりの意義について考えさせ,現代社会をとらえる見方や考え方の基礎として,対立と合意,効率と公正などについて理解させる。その際,個人の尊厳と両性の本質的平等,契約の重要性やそれを守ることの意義及び個人の責任などに気付かせる。
「人間は社会的存在である」ということを出発点として,法は,誰も争うことができないものとして,以下の3つの原理とそこから導かれる憲法の原理を前提としている。以下の前提を欠く場合には,たとえ,議論の結果として生じたルールであったとしても,無効であり,拘束力を生じない。
以上の前提を満たした上で,構成員の議論を経た上で作られたルールは,それが変更されるまで,構成員は,これを守らなければならない。それが,次に述べる「法の支配」の原理である。
人は人によって支配されるべきではない。奴隷制は禁止される(憲法18条)。しかし,すべての人は,平等に法による支配を受ける(憲法14条)。すなわち,個人の基本的人権も公共の福祉によって制限される(憲法12条,13条,22条,29条)。立法機関である国会といえども,憲法に違反することはできない(憲法81条),行政も法に従って行わなければならない(憲法73条),司法も憲法と法律には拘束される(憲法76条)。
それでは,なぜ,人は法に支配されるのか。その理由は,「権力は腐敗へと向かう。絶対的権力は徹底的に腐敗する」という人類が歴史から学んだ経験則(アクトン卿の格言)に基づいている。法の支配ではなく,「人の支配」を認めたとたんに,個人の尊厳,法の下の平等がないがしろにされることは,歴史の示すところである。腐敗しがちな権力を制御するために,法は,権力を三権に分割するとともに(三権分立),法律を自由に作成・変更できる立法権といえども,憲法に反する法律を作ることを制御することにしたのである(違憲立法審査権)。更に,司法権の腐敗を防止するために,裁判官を弾劾する権能を国会に与えている(憲法64条)。
このように,法は,全てを支配するが,法の内容自体は,社会の変化等に応じて,変更可能である。憲法でさえ,厳格な手続の下ではあるが,改正可能である(憲法96条)。法律も国会が改正することができる(憲法59条)。したがって,法の支配という「概念」は永続的であるが,人を支配する法の具体的な「内容」は,時代によって変化することになる。
法の支配は,司法権によって遂行されるが(憲法81条),それに相応して,すべての人には,裁判を受ける権利が保障されている(憲法32条)。そして,裁判を行う裁判官も,憲法と法律に拘束されているのであるから(憲法76条3項),法の支配が貫徹していることになる。
以上で法的知識のうち,具体的な条文の前提知識を明らかにすることができた。残るのは,具体的な条文に関する知識である。しかし,先に述べたように,法律の数は現行法令だけでも1,864(憲法1,法律1,863)の数があり,それぞれの法令の条文の数に至っては,教育可能なオーダーを遙かに超えている。そこで,法教育において具体的な条文を取り上げるに際しては,教材として取り上げる事件に関連したものに限定するとか,先に述べたように,現行の裁判において,最も頻繁に適用されている条文に限るという工夫が必要となる。
いずれの条文を取り上げるにしても,その条文の意味を説明するに際しては,その条文が具体的な事例を解決するに際して,どのように使われるのかを示す必要がある。例えば,民事裁判で最も多く適用されている民法709条以下の不法行為の条文を説明するに際しても,裁判でそれを使うに際しては,第1に,原告の側で,原告の請求(C)が一応認められると思われる程度に,事実関係(D)を請求の論拠(W)に即して整理されて主張することが必要であること,第2に,そのような請求が主張された場合に,被告の側でそれを争うには,どのような反論(R)を行うことができるのか,第3に,両者の論拠の裏づけ(B)が,いずれも,争うことのできない論拠から組みたれられているかどうかという観点から説明することが望ましい。
例えば,XをYが殴ってけがをさせたという事例に関して,民事裁判で最も頻繁に適用されている民法709条を説明する際には,先に述べた「法的議論のモデル図式」に即して説明するのがよいと思われる。
*図5 不法行為に基づく損害賠償請求の「法的議論のモデル図式」 |
トゥールミン図式とは異なり,「法的議論のモデル図式」では,「B:裏づけ」は,「W:論拠」だけでなく,「R:反論」をも裏づける定言命題となっている。「B:裏づけ」から見れば,「W:論拠」と「R:反論」とは,それぞれ,原告と被告の都合のよい一面だけを切り出したものであり,したがって,裁判官は,具体的な事案の性質を考慮した上で,「B:裏づけ」の観点から,両当事者が納得できる結論を下すことができる。
上記の事例の場合に,もしも,それが,酒の席での喧嘩であり,Yに事理を弁識する能力が失われている場合には,「損害を最小にする配慮」ができない状態なのであるから,Yは責任を免れる可能性がある。また,先に殴ったのがXである場合には,Yの行為は正当防衛として,責任を免れる可能性がある。裏づけにより,「必要なことは認められる」からである。しかし,それが度を過ぎている場合には,「損害を最小にするような配慮が欠けている」ため,過剰防衛として,一部について責任を免れないということになる。さらに,「Q:様相限定詞」を根拠づける「法律上の推定」は,時間の経過によって変化するのであり,Yが消滅時効の抗弁を援用した場合には,Yは責任を免れることになる。
実際の事件においては,原告の論拠と被告の抗弁とのせめぎ合いの中から,両当事者を説得できるような法理としてB:裏づけが発見されるものであり,それを発見できるかどうかは裁判官の力量にかかっている。条文だけに頼ってなされる判決は,一方的な判断となるため,他方当事者を納得させることができず,上訴の可能性が高くなる。条文の立法趣旨や学説を考慮して,両当事者を納得させることのできる「B:裏づけ」を発見できた場合には,両当事者が納得し,上訴なしに判決が確定することになる可能性が高まる。
@イェーリング・権利のための闘争で引用されていた「正義の女神(法の女神)」の名前は何というのか調べてみよう。次に,A女神が持っている「はかり」,「剣」,身につけた「目隠し」が,何を意味しているのかを考えてみよう。最後にそこで検討した結果を踏まえて,B「法とは何か」を正義の女神の持ち物に即して簡潔に表現してみよう([加賀山・民法学習法(2007)23−28頁]参照)。 |
@十七条の憲法の原文を検索し,それぞれの条文が日本国憲法の何条に該当するかどうかを検討してみよう。次に,以下に引用する十七条の憲法第3条は,戦前においては「承詔必謹」(天皇の詔は絶対であり必ず従え)と読まれ,天皇絶対制を支えるために利用されてきた。B十七条の憲法第3条について,日本国憲法の精神に則り,新しい解釈を行ってみよう([岡野・十七条憲法を読む(2003)101-112頁]参照)。 十七条の憲法 第3条 詔を受けたら必ず従う。君は天とす,臣は地とす。天は覆い地は万物を載せる,四季は正しく運行し万物を活動させる。地が天を覆うと欲すれば,秩序は壊れてしまう。ということで君主は指示し,臣は従う。上が行なえば下はなびくものである。だから詔が出たら必ず従い,従わなければ自滅することになる。 |
法的推論の特色は,論拠が憲法と法律に限定されているということである。これは,憲法76条3項に明文で定められている。しかし,社会で生じる紛争は多彩であり,時代によって変化する。したがって,立法者が想定して制定した法律の条文によって紛争を適切に解決することができるとは限らない。しかし,法に課せられた課題は,そのような制約の中で,最善の解決を目指さなければならない。そこで,限られた条文を使って妥当な解決をもたらす解釈技法を発達させてきたのである。
同じようなことは聖書等の教典の解釈にもいえることであり,法学は,このような教典の解釈から学ぶことが多かったのであるが,法学がそれらの解釈方法よりも,解釈技術を進化させていった原因は,次の4点にあると思われる。すなわち,法律の場合には,第1に,審理の内容がすべての人に公開されていること(秘密主義の排除),第2に,二審制にせよ,三審制にせよ,同じ問題を複数のジャッジが判断し,解釈の精度を競わせていること(相互批判の自由の確保),第3に,一定時間内に最終の結論が最上級審級によって示されることになっており(一定時間内での結論強制),第4に,すべての審級の審理の結果と合わせて公式の文書に記録して長年にわたって蓄積して,誰でもがそれを見ることができるにしていることであり(判例集の存在と公開),第5に,判例集が,著作権の対象となっていないことである(著作権フリー)。理由が付された判例集に誰でもが無料でアクセスし,自由にコピーし引用することができる点が,法学の発展に大きな貢献をしているように思われる。
ここでは,レトリックによって発達してきた6つの推論方法(A.定義による推論,B.類推による推論,C.譬喩による推論,D.より強い理由による推論,E.因果関係による推論)を取り上げ,それが,法律の解釈を理解する上で非常に重要であり,このような解釈の実際を体験することによって法解釈の基礎を学ぶことができると思われる。
AはBだから,Aに妥当することは,当然に,Bにも妥当するとする論証(ルールの当て嵌め)である。最も基本的な解釈であるが,当然すぎて推論自体が問題とされることは少ない,ただし,定義が誤っていたり,ルールが悪法であったりする場合に問題が生じる。
この「定義・ルールの当て嵌めによる論証」に反論するためには,別の定義を見つけることができるとよい。別の定義によって,元の定義を無効にすることができる場合があるからである。
初学者は,定義やルールを知らないので,定義やルールを覚える際に,事例に当て嵌める練習を積みながら定義やルールを覚えると効率が高まるという利点がある。
AはBと似ており,Aに妥当することは,Bにも妥当するはずであるという論証(類推)である。実際の事件においては,定義やルールがそのまま当てはまるという場合は少ない。そもそも,定義やルールがそのまま当てはまるように事例であれば,紛争にならないことが多い。
定義やルールがそのまま当てはまらないときに最初に試みられるのが類推解釈と呼ばれるこの論証である。似ているかどうかは多分に主観的な判断に依存するし,判断の限界が難しい。
有名な「車馬通行止め」という例で類推の限界を考えてみよう。子どもたちが遊んでいる公園の入口に「車馬通行止め」という掲示が掲げられていたとする。そこへ車イスに乗った子どもが遊びにやってきたとする。公園の管理人は「車馬通行止め」のルールに従って公園の入場を禁止すべきだろうか。
ここでの「車」の意味は,自動車のことを念頭に置いて掲示がなされていたとする(いわゆる立法理由)。そして,自転車の場合は,自転車から降り,自転車を押して入場するのは許可するが,自転車に乗ったままでは公園への入場は禁止しているとする(運用マニュアル)。
管理人は,車のついた乗り物である車イスは,自動車や自転車に「似ている」と考えて,「類推解釈」により,車イスに乗ったままの子の入場を禁止した。車イスの子は,どのような反論をすることができるだろうか。
これに反論するには,似ているという2つの事例間の類似性を否定するとよい。特に,比べられている2つの事例の範疇(階層)が異なることに注目すると反論がしやすいとされている。車イスは,自動車とは大きさも構造も性能も異なる別物であると主張することができる(縮小解釈)。さらには,人間は文句なしに入場できるのであり(「車馬通行止め」の「反対解釈」),身体障害者は車イスと一体となって行動しているのであるから,車イスに乗った「人間を入場禁止にする」のは反対解釈に反しており,人権侵害であるということもできる。
*図6 「車馬通行止め」の類推解釈と反対解釈 |
さらには,管理人の類推解釈をそのまま認めつつ,自転車を「押して」入場することができるのであれば,車イスを「押して」入場するのは,自転車を押して入場するのと「似ている」のだから,入場を許可すべきであるということもできよう。
結局,類推が認められるかどうかの決め手は,ルールの立法趣旨である「大型乗り物は危険であるから通行を禁止する」という精神に照らして,「車馬」に似ているかどうかが判断されなければならないのである。
「AのBに対する関係は,CのDに対する関係とほぼ同じである」という論証(譬喩による論証)である。類推解釈との違いは,対象が似ているのではなく,関係が似ているという点である。
譬喩の一般形式は,「AのBに対する関係は,CのDに対する関係である」というものである。例えば,「人生の老年におけるは,一日における黄昏(たそがれ)におけるが如し」というのが譬喩の典型例である。そして,この譬喩は,「AのB」ではなく,「AはC」とか,「AのD」という場合にその真骨頂を表す。すなわち,「人生は一日の如し」(AはC)とか,「人生の黄昏」(AのD)という譬喩が意味を持つのは,人生の「出生と死亡」が,一日の「日の出と日没」とに喩えられること,そして,「一日の夕暮れ」に対する関係が,「人生の老年」の関係と似ていることに気づいているからである([ペレルマン・説得の論理学(1980)160-184頁],[香西・議論の技を学ぶ(1996)114-115頁])。
これに関連して,法律用語に「地震売買」というものがある(法律用語辞典にも載っている)。初学者は,「地震の取引」があるのだろうかと思ってしまうかもしれない。しかし,これは,「人生一日の如し」とか,「人生の黄昏」と同じ譬喩なのである。その意味を理解するには,以下の4つの前提知識を必要とする。
上記の2の状態を表現するのに,「地震売買」という用語が使われているのである。この意味は,「地震(A)の建物に対する命運(建物の崩壊)(B)は,賃借土地の売買(C)の賃借地上の建物に対する命運(建物の取り壊し)(D)の如し」という関係を省略し,「地震売買(AC)」と表現したものである。
このような譬喩を使った論証に対しては,譬えには誇張があるので,その誇張をさらに拡大して,相手を笑い飛ばすというのが反論の常道であるとされている。
Aに妥当するなら,「より強い理由により」Bにも妥当するという論証(もちろん解釈)である。先に挙げた原発の例でいえば,「火力発電が許されるのであれば,それよりもCO2の排出量が少ない上に,出力も遙かに大きい原子力発電が許されるのは当然である」(「もちろん解釈」)というのがそれである。
このようなもちろん解釈に対しては,誰にとって「より強い理由」といえるのかを考えると,結論を覆す別の立場からの「より強い理由」を見つけて,反論できることが多い。先の原発の例で言えば,電力会社にとっては「より強い理由」といえるかもしれないが,「近隣住民」の立場からすれば,原子力発電は,火力発電所の事故よりも,桁外れの被害を生じさせるおそれがあるので,火力発電の場合よりも,「より強い理由」で許されるというわけではないと反論できる。
AがなければBは生じていないので,Bの原因はAだとする論証(「あれなければこれなし」)。本来は,Aがない場合よりBの生じる確率が高いので,AはBの原因だとするのが正しい論証であるが,確率の計算方法が確立されていない時代には,「あれなければこれなし」の推論が権威を有していた。
この因果関係の論証に対しては,同じ原因でも,同じ結果が生じないことを示して反論することができる。この反論は,因果関係の追及を「あれなければこれなし」の論理で迫ってくる相手にはうまく機能する。しかし,因果関係の追及をAがない場合よりBの生じる確率が高いので,AはBの原因だという論理で迫ってくる相手に対しては,原因はあるが,それは,確率が示すとおり,部分的なものに過ぎないとして反論するしかない。
法律の条文に解釈が必要なのはなぜか。 |
「車馬通行止め」を例にとって,「文理解釈」,「拡大解釈」,「縮小解釈」,「反対解釈」,「類推解釈」,「もちろん解釈」,「例文解釈」を具体的に説明しなさい([加賀山・民法学習法(2007)105-111頁]参照)。 |
レトリックは,一面で,当事者の双方が納得する解決を見出すのに有用であると同時に,他面で,レトリックを濫用する者から,自己の権利を守るためにも有用である。レトリックを濫用する者がよく使う手口は,相手を巧みに二者択一の選択肢へと追い込み,その選択肢がすべて相手にとって不利なものとなるように仕組まれている(仕組まれたジレンマへの追い込み)というものである([香西:論よりも詭弁(2007)156頁],[香西・レトリックと詭弁(2010)108-118頁]参照)。
そこで,ジレンマのように見えて,実は,ジレンマではないもの,または,ジレンマに陥っても,そこから脱出する方法を身につけておくことが重要となる。
古代ギリシャでは,問答競技(エリスティケー)という弁論を競う競技がよく行われていたとのことである(プラトン『エウチュデモス』275D-276C, 276D-277C)。その例として,「ものを学ぶのは賢い人か愚かな人か」をめぐる問答というのが記録されている[田中・ソフィスト(1976)160頁]。
ある人が,その答えとして,「ものを学ぶのが賢い人だ」というと,「学ぶからにはものを知らないはずだ。ものを知らないのは愚かな人である。したがって君の答えは間違っている」といわれる。そこで,今度は,「ものを学ぶのは愚かな人だ」というと,「学ぶことは愚かなことであろうか」といわれ,「学ぶことは愚かなことではありません」と答えると,「それでは,ものを学ぶ人は賢い人だということになる」といって,どちらを答えても論破される。
どうしてこのようなことが起こるのであろうか。この議論を「法的議論のモデル図式」で示してみよう。
学ぶ人は,学ぶ前は,学ぶ対象についてよく知らないのであるから,愚かな人である。しかし,学ぶことによって,愚かな人も賢い人になることができる。これが,教育の醍醐味であり,希望である。動物と違って生きていけない状態で生まれてくる人間の子は,教育によって言語を習得し,賢くなれるのである。したがって,本当の答えは,「学ぶ人は,学ぶ前は愚かな人である。しかし,学んだ後は賢い人である。」ということになる。学ぶことが人を変えることができるという作用を理解すれば,ジレンマに陥るのを避けることができるのである。
*図7 学ぶ人は愚かな人か賢い人か? |
ところで,最初に紹介したトゥールミン図式(原型,および,一般型)においては,「裏づけ」は,「論拠」の理由づけとされ,「反論」との関係が断絶されている。しかし,トゥールミン図式を改良した「法的議論のモデル図式」では,上記のように,「裏づけ」は,「論拠」だけでなく,「反論」の理由づけとして位置づけられている。このため,論拠と反論の両面を考慮した解決案を導くことが容易となるという利点を有している。すなわち,「法的議論のモデル図式」では,争う両当事者の合意の基準として,すなわち,紛争解決の「落としどころ」を示すことが可能となるのである。
議論の中で,二者択一を迫られ,どちらを選んでも望ましい結果が得られそうにないというジレンマに追い込まれることがある。代表的なジレンマを例にとって,その脱出方法を考えてみよう[香西・レトリックと詭弁(2010)109頁]。
ある女祭司が息子に公の場での演説を許さなかった。その理由は,以下の通り。
もしお前が正しいことを述べるようなら,人々はおまえを憎むことになろうし(へつらいは友人を作り,真理は,憎しみを生む(ホメロス)),もし不正なことを述べるようなら神々の憎むところとなろうから。
相手の言うことをまともに受けると,公の場では,正しいことも不正なことも言えないのであり,演説することはできないように思われる。しかし,この場合も,「法的議論のモデル図式」によって相手の主張を図式化してみると,反論の手がかりがつかめるようになる。
*図8 公の場で演説すべきか? |
このようなジレンマに追い込まれたときの反撃の技法はレトリック理論では,以下のように説明されている[香西・レトリックと詭弁(2010)109頁]。
相反する2つのもののそれぞれに善悪の2つの結果がつき随っている場合には,これら相反する結果のそれぞれを,もう一方の相反する結果とそれぞれ交叉的に組み合わせればよい。
上記の方法の意味は,一見したところは難解である。しかし,上記のように,「法的議論のモデル図式」を書いてみて,論拠の裏づけを探求すると,その意味を構造的に理解できるようになる。すなわち,論拠にも,また,反論にも利用できる裏づけを考えてみると,論拠は,一面だけを取りだして,どちらを選んでも結果が同じとなる二者択一を迫り,ジレンマに追い込もうとしていることがよく分かる。
ジレンマの脱出方法が理解できたかどうかは,以下のようなフランスの論理学の教科書に出てくる練習問題を解いてみればよく分かる。「法的議論のモデル図式」を描いてみた後に,ジレンマから脱出してみよう。
【練習問題6】
(結婚しても苦労するだけだからやめた方がよいというフランス的助言)([香西・レトリックと詭弁(2010)112-114頁]) あなたは,男性であり,かつ,第1の前提を争うことができないとする。その上で,以下のジレンマに対して反論を行いなさい。
|
【練習問題6】が解けた人は,ジレンマに関する最高度の難問といわれる「コラクスのジレンマ」の問題に挑戦してみよう。以下の応用問題が解けたならば,ジレンマ脱出法を完全にマスターしたといえよう。
コラクスのジレンマ([ルブール・レトリック(2000)13-14頁]参照) ティシアスなる人物が,レトリックとは説得の技術であることを耳にし,居所を離れて教師コラクスの門下に入り,この技術を学んだ。しかし教程をきわめてもはやなにも教えてもらうことがなくなるやティシアスは約束の授業料を払わずにおこうとした。裁判となり,集まった判事の前で,ティシアスは次のようなジレンマを用いた。 ティシアス:コラクス先生,先生は私に何を教えると約束してくださったのでしたかな? コラクス先生は,このジレンマをどのように切り返したのだろうか。練習問題5と同じようなルールを思い出しながら,「法的議論のモデル図式」を作成し,自分で,解答を考えてみよう。 |
実際にコラクスが用いたジレンマ脱出法は以下の通りであった。ティシアスとコラクスの対決について,あなたは,どちらに軍配を上げるか。その理由は何か。 コラクス:もしもおまえが,わしには1銭も受け取る権利はないと,うまく説得できたのなら,わしに謝礼金を払わにゃいかんだろうな。わしはちゃんとレトリックを完全に教えるという約束を守ったことになるからな。 |
議論をする場合に大きな問題となるのは,誰が,主張を支える事実とその論拠とを証明するかである。これが立証責任の問題であり,議論の行方を左右しかねない重大問題である。
立証責任の決定は,通常は,3つの原則が働いているといわれている([ペレルマン・法律家の論理(1986)222-224頁]参照)。
原則はこの通りであるが,現実には,あることを主張する側が立証責任を負うのが原則となる。例えば,ある本について,「読むべきだ」という主張と「読むべきでない」という主張が対立した場合のことを考えてみよう([香西・論よりも詭弁(2007)159-169頁],[香西・レトリックと詭弁160-168頁]参照)。
推奨派:K教授の担保法の本を読んだが,画期的な名著だ。これまで何年勉強しても分からなかった箇所がことごとく氷解した。まさに目から鱗だった。初学者にとっても,理解困難な通説で何年も苦労するよりも,最初からK教授の本を読み,それから通説を読む方が,かえって,通説の理解が早まると思う。初学者にもお薦めの本だ。
拒絶派:確かに,通説も分かりにくいが,K教授の本も,一人孤高を羽ばたいているだけで,分かりにくいことに変わりはない。特に初学者にとっては,まず,通説を理解することが必要であり,一度通説を勉強した人が読む分には勝手だが,初学者にとってはお薦めできない。
第1の原則から言えば,新しい学説を推奨する方が,立証責任を負うことになる。しかし,第2の原則から言えば,自由を制限しようとする拒絶派の方が立証責任を負うことになるように思われる。このように,立証責任をどちらが負うかについては,様々な説があって対立しており,確立した説は存在しないといってよい。
そこで,立証責任は,原則として,現状の変化を求めて主張する側が負うということになる(広い意味での慣性の法則)。つまり,何かを主張する者は,結論が推定できるデータと論拠を示す責任を負うということになる(攻撃側が原則として立証責任を負う)。
そこで,この原則を逆手にとることが可能となる。その方法が「仕組まれた質問」による「立証責任の転換」というテクニックである。
議論の嫌いな人であっても,「質問」されると,つい答えてしまいたくなる。しかし,その「質問」が,「分からないから教えてほしい」というように見せかけられてはいるが,実は,自分の立証責任を相手側に転換するという高度なテクニックである場合があるので,質問にはうかつに答えてはならない。このような質問にうっかりと答えてしまうと,必ずといってよいほど,相手に論破される危険性が高いからである。立証責任を転換するための質問に対しては,まじめに答えるのでなく,相手に質問を返して,立証責任を元に戻すことが重要だということになる。
先の推進派と拒絶派との議論に立ち返って,推進派が,次のような「仕組まれた質問」によって問いかけてきたとする。
推進派:最近出たK教授の担保法の本は,画期的な教科書だと思う。初学者に薦めようと思うけどどうだろうか?
拒絶派:無理,無理。
推進派:なぜなの?
拒絶派:だって,あの本は,担保物権を債権として再構成しようとするのだから,初学者が読むと大混乱に陥って取り返しがつかなくなるおそれがあるだけでなく,…。
というように,本来は,推進派がデータと論拠によって証明しなければならない議論なのに,いつの間にか,拒絶派の方で,立証責任を引受たことになってしまっている。したがって,このような立証責任を転換しようとする質問に対しては,立証責任を戻すために,答えを始めるのではなく,質問を返すことが大切である。
推進派:最近出たK教授の担保法の本は,画期的な教科書だと思う。初学者に薦めようと思うけどどうだろうか?
拒絶派:なぜ,そう思うの?
これで,立証責任は元に戻ったことになる。議論においては,攻撃側と防御側とを比較すると,立証責任を負う分だけ,攻撃側が不利になる[亀本・法的思考(2006)277頁]。これは,秩序の維持という点からは肯定できる考え方である。この原則をひっくり返すには,うまく質問を構成すれば,挙証責任を転換することができる。攻撃側はできるだけ,このテクニックを使おうとするので,防御側は,その手に乗らないように注意する必要があり,仕組まれた質問には,うっかり答えるのではなく,質問を返すことによって,立証責任を元に戻すことが大切である。
そのことを十分に理解した上で,学生に質問をする教師よりも,学生の質問に答えることを優先する教師が尊敬されるのは,自らの質問権よりも,学生の質問権を優先し,不利な立証責任をあえて負う態度に,教師としての潔さが感じられるからであろう。
教育は,本能を失った状態で生まれてくる「子ども」を肉体的にも精神的にも経済的にも自律できる「おとな」へと育てる営みである。生まれた状態の子は,放置すればすぐに死んでしまうだけでなく,人間の特色である言語を習得することもできない。したがって,「生きる力」を育てるための教育は,生まれてくる子にとって必要不可欠のものである。
しかし,教育は子にとって必要不可欠という側面だけではない。教育は,それをする側にとっても大きな意味を持つ。人間は,いつかは死ぬ存在であり,永遠を求める衝動を押さえがたい存在でもある。永遠を求める存在としての人間は,永遠を求めて2つの営為を行う。一つは,生殖によって子孫を育てること,もう一つは,教育によって文化の後継者を育てることである。つまり,教育は,受ける側にとって必要不可欠であると同時に,行う側にとっても最も価値のある営みである。
法は,社会的動物である人間が秩序を保って平和に生活する上で不可欠のルールの集合である。法を理解しない人間は,徒党を組み,力と数にものを言わせて人を支配しようとする。その集団が,人を支配する権力を手に入れると,その権力は必ず腐敗へと向かい,秩序と平和が破壊される。したがって,社会的動物である人間が秩序と平和を維持するためには,人の支配ではなく,法の支配を実現しなければならない。
法の支配を実現するためには,立法,行政,司法との間で権力の分立と相互監視が必要である。しかし,それだけでは権力の腐敗を防止するには不十分である。法の番人を自認する法曹三者(弁護士,検察官,裁判官)も人の子であり,法の仕組みを理解した素人である市民の有効な監視がなければ,必ず腐敗するからである。
専門家である法曹の腐敗を防止するためには,素人である市民も,法の最低限の仕組みだけは,理解しておく必要がある。したがって,法教育は,全ての市民が自らの人権を守れるようにするだけでなく,法曹の腐敗を防止するためにも不可欠の教育である。そして,法の素人であるすべての成年が裁判員になる義務を有する以上,法教育は,義務教育として実施されなければならない。
しかし,小・中・高の教師が,法教育をしなければならないということは,法律の専門家でない者が,法律に関する健全な常識と法的なものの考え方を教えざるを得ないということを意味する。
この事態は,法律の専門家でない裁判員が,重大な刑事事件の評議・評決に加わってその職務を全うせざるを得ないという事態と同様である。法教育を担当することになった教師は,いきなり裁判所の評議に加われと命じられた裁判員と同様の「困惑・不安・恐怖」に陥ることになる。このような「困惑・不安・恐怖」を解消するためには,法律を学んだことのある法学部出身の教師と,レトリック(哲学,語学,論理学等)を学んだことのある教師とが協働して法教育の教材作りを始めるところから出発すべきである。
これまで,法教育は,大学の法学部を中心に専門教育として行われてきた。しかし,その教育内容は,法律の専門家を養成するためのものであって,逆に,素人が法律の専門家を監視し,腐敗を防止するという観点からの教育はなされてこなかった。このため,これまでの法学部の専門教育を手本として法教育の方法と内容を定めたのでは不十分である。法教育は,素人である市民が自らの人権を守るとともに,法律の専門家の暴走を制御するという目的を明確に意識した上で,しかも,義務教育として,その方法と内容とが検討されなければならない。
幸いなことに,義務教育の中でも,プレゼンテーション能力を伸ばすために,トゥールミン図式を利用する試みとその成功例が報告されている。しかも,このトゥールミン図式は,もともと法廷での弁論を念頭に置いて作られたものであるため,法教育の方法として利用することが容易である。したがって,法教育の基本は,トゥールミン図式の理解から始めるのがよい。この過程で,子供たちには,論理とレトリックの知識が身につくようになる(第1段階)。
次に,トゥールミン図式に法曹の思考方法として伝統を有するアイラック(IRAC)を融合して,合意形成が容易となるように修正された「法的議論のモデル図式」を利用すれば,法教育の土台が出来上がる(第2段階)。
そして,法教育の実践においては,法の運用の中で突出した適用頻度を示す不法行為の事例から設例を構成し,「法的議論のモデル図式」に即して,D:事実関係の表現方法を学ばせるとともに,W:論拠となる法律として,憲法,刑法,民法,民事・刑事訴訟法の知識が使えるように教材と問題集を作成することが必要である(第3段階)。
「法的議論のモデル図式」を使った教育実践においては,主張側の論拠に対して,相手側は,どのような反論が可能かを常に検討するようにし,「W:論拠」と「R:反論」の「B:裏付け」として,どのような共通の理由づけが考えられるかを発見させるように導くことが大切である(第4段階)。そうすれば子供たちは,両者がともに納得して紛争を平和的に解決できる能力が養われると思われる。
法教育の目的は,法律知識の獲得ではなく,具体的な事案に法律を適用する推論の仕方について,複数の結論を導びくことが可能であることを学習させることである。そのために,教師は,具体的な事例を元に,生徒の興味を引く事例教材を作成する必要がある。その際,刑事事件と関連する不法行為の事例を中心に事例を作成するのが適切である。不法行為に関する重要な条文は,10を超えない上に,その裁判における適用頻度は,どの領域よりも,飛び抜けて高いからであり,不法行為の事件について,問題解決における推論の過程を経験できるようになると,裁判におけるほとんどすべての推論の仕組みが理解できるからである(本稿では,この問題について「法的議論のモデル図式」の活用が有効であることを論じた)。
法教育における教育方法も,裁判員制度における評議・評決と同様に考えることができる。法学とレトリックを学んだ教師が中心となって生徒の興味を引く事例問題を作成し,代表的なものを選んで,一般的な問題の解き方(「法的議論のモデル図式」を使いながら,事件の図示による登場人物と法律関係の解明,事件に提供できる複数の条文の発見,事実に条文を適用する場合の解釈の方法)に従って,問題を解いて見せた後,生徒に他の事例を選択させ,数名のグループごとに,その解決策をアイラック(IRAC)という配列法に従って,プレゼンテーションをさせるのがよい。前半は,教師が生徒を教え,学生が質問をするのであるが,後半のプレゼンテーションは,生徒が教師に教えるという形をとる。教師は,生徒のプレゼンテーションを見て,誤りを指摘したり,改善方法を指摘するとともに,よい点をほめる側に立つ。このようにすることを通じて,専門家(教師)と素人(生徒)の協働による新しい法教育が実現できると思われる。
2009年から実施された裁判員制度の実施に伴って,義務教育段階での法教育が必要不可欠であることが認識されていたが,新学習指導要領が「生きる力」を育てるというコンセプトを採用し,中学校では2012年度から全面実施されることになったため,法教育を義務教育で実施する環境が整うことになった。
2011年の東日本大震災によって,親を失った子どもたちを見ると,この子たちに「生きる力」を育てることがいかに重要かが改めて実感できる。「生きる力」を養うことにとって,肉体的自立,精神的自立,そして,経済的自立が必要であることは当然であるが,これに加えて,現代では,インターネットで情報を発信する力,および,インターネットを悪用する悪徳商法から身を守る力も養わなければならない。
このことを実現するためにも法教育が重要な役割を果たすことは当然であるが,第1に,教師の側には,「『法は難しいもの,近寄りがたいもの』という先入観からか,法教育にためらいを覚える教員も多い」 [大村=土井・法教育のめざすもの(2009)33頁]という阻害要因があるばかりでなく,第2に,たとえ,教師が法教育に理解があり,意欲的に教えようとしたとしても,「馬を水辺まで連れて行くことができるが,水を飲ませることはできない」という障害に突き当たる。当然のことではあるが,教育は受け手の側に「学びたい」という意欲がなければ,効果を上げることができない。
子どもたちに学習のやる気を起こすためには,第1に,努力によって達成できる学習目標が示され,第2に,学習目標を達成すると評価され,第3に,達成方法には自由に任せ,達成の結果に責任を持たされることが重要であるとされている[吉田・子供がやる気を出す(2011)39−51頁]。そのほかにも,教材におもしろい事例が使われ,達成度を測る難易度の異なる練習問題が用意されることが必要であると思われる。
本稿では,そのささやかな試みとして,トゥールミンモデルを変形して学習到達度を高めるとともに,原発問題,日本人に関する有名なジョーク,法務大臣の問題発言など子供たちの興味を引くような事例を取り上げ,さらに,難易度の異なるジレンマ脱出法の練習問題(教育のジレンマ,結婚のジレンマ,授業料支払いのジレンマ)を用意してみた。
これを法教育に利用する場合,教師が一人で落語もどきを演じるのもいいが,こどもたちに,ボケ役と突っ込み役を与え,漫才を実演させてみると効果が高まる。また,この方法によれば,ディベートや模擬裁判によって勝ち負けを競うのとはひと味違う効果が期待できる。なぜなら,漫才は,一方が主張し,相手が反論を試みるという点では,ディベートや模擬裁判と同じであるが,最後に,誰もが笑わざるを得ない「落ち」(共通理解)へと誘う点で,勝ち負けによる後味の悪さを免れることができるからである。
法教育は,工夫次第では,教師たちが危惧しているほど教えるのが困難な科目ではなく,子供たちの緊張のプレゼンテーションに始まり,厳しい突っ込みに晒されながらも,最後は,共通理解によって笑いに包まれて終わるという楽しい科目にすることができるように思われる。
「法と証拠によって適切にやっております」という言辞は,トゥールミンモデルにおけるデータ(D:証拠)と論拠(W:法)に則っているように見える。しかし,肝心のデータについて,「個別の事案についてはお答えを差し控えます」という言辞は,データ(D)を示して主張するということと矛盾しないだろうか。また,その主張に論拠(W)としての法は示されているのだろうか。「法の支配」,「三権分立」等の問題を含めてよく考えてみよう。
テミス像持ち物をよく見てみよう。秤は2つある。それぞれに何を載せるのだろうか。剣を振り上げずに下げているのはなぜだろうか。テミスが目隠しをしているとすると,天秤の傾きは誰が見るのだろうか。そして,その傾き加減をテミスに伝えるには,当事者はどうすればよいのだろうか。弁論主義の問題を含めてよく考えてみよう。
[岡野・十七条憲法を読む(2003)]等の文献を読むと同時に,「人の支配」の対極にある「法の支配」とは何か,[タマナハ・法の支配(2011)]などの文献を読んでよく考えてみよう。
憲法76条3項をよく読んで考えてみよう。
有斐閣・法律学小辞典の「法の解釈」の項目と,[加賀山・民法学習法(2007)105−111頁]をよく読んで考えてみよう。
確定判決が実体法上の権利と矛盾する場合にどのような救済があるのかを考えながら,問題の複雑さを理解しよう。