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作成:2006年9月18日
講師:明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂
書記:竹内 貴康,藤本 望 編集:深川 裕佳
契約の履行は,「債務の本旨に従った」ものでなければならない(民法415条)。債務の本旨に従った履行とは,@履行すべき時期に(民法412条,533条),A履行すべき場所で(民法484条,574条),B応分の費用を負担して(民法485条,558条),C債務の目的に適合した内容の履行をすることである。Cについては,前回の講義で詳しく説明した。今回は,@,A,Bについて学習する。
履行(弁済)の時期については,債権総則の民法412条(履行期と履行遅滞)に規定がある。履行期については,後に述べるように,各契約類型に応じた履行期の規定があるため,個別規定を参照する必要があるが,そのような規定がない場合に,民法412条が大きな意味を持つことになる。
なお,期限は,次のように2分類されている
具体的に契約類型のうち,履行期が問題となる典型的な契約として,金銭消費貸借(ローン)と,金銭の消費寄託(預金)について,民法412条の原則が,どのように適用され,または,修正されて適用されるのかを検討してみよう。
第1に,具体的な契約である消費貸借契約(例えば,銀行ローン等の借金)に民法412条のルールを当てはめてみると以下のようになる。民法412条(履行期と履行遅滞)と民法136条(期限の利益及びその放棄)とを組み合わせてみると,消費貸借における物(金銭)の返還時期に関する民法591条の規定の意味が,よく理解できると思う。
第2に,消費貸借の規定が準用される消費寄託契約(例えば,銀行預金)について,民法412条のルールを当てはめる場合には,さらに,民法666条(消費寄託)ばかりでなく,寄託の返還時期についての民法663条(寄託物の返還の時期)をも考慮することが必要になる。
民法412条の弁済期に関する総則的規定に関しては,上記で紹介した,第1の消費貸借契約における特則(民法591条)や,第2の消費寄託における特則(民法666条2項)のほか,売買契約における代金の支払期限についての特則(民法573条),使用貸借における借用物の返還時期についての特則(民法597条),賃貸借契約における賃料の支払い時期についての特則(民法614条),同じく賃貸借契約における目的物の返還時期についての特則(民法617条),雇用契約における終了時期についての特則(民法627条),寄託契約における物の返還時期についての特則(民法662条,663条)等がある。これらは,期限の利益を有する者(民法136条)が,債務者だけなのか,債権者の利益でもあるの,さらに,それぞれの有する利益がどの程度なのかを考慮して,微妙に異なる結果を生じさせているので,原則と特則との関係を条文ごとにひとつひとつ確認しておく必要がある。
契約以外で生じる債務,例えば,不法行為に基づく損害賠償債務は,契約関係が先行しないことを考慮して,確定期限があるのと同様(民法412条1項)に扱われ,催告をしなくても,不法行為の時から当然に遅滞を生じるとされている。
最三判昭37・9・4民集16巻9号1834頁(損害賠償請求事件)
不法行為に基づく損害賠償債務は,なんらの催告を要することなく,損害の発生と同時に遅滞に陥るものと解すべきである。
これに対して,同じく契約外で生じる債務であっても,安全配慮義務違反に基づく損害賠償債務については,社会的接触関係に入った当事者間で生じるものであることを考慮して,契約不履行に基づく損害賠償債務と同じく,期限の定めがないのとされ(民法412条3項),請求のときから遅滞に陥るとされている(最一判昭55・12・18民集34巻7号888頁)。
最一判昭55・12・18民集34巻7号888頁(損害賠償請求事件 〔大石塗装・鹿島建設事件〕)
安全保証義務違背を理由とする債務不履行に基づく損害賠償債務は,期限の定めのない債務であり,債権者から履行の請求を受けた時に履行遅滞となる。
今回の講義のねらいでも述べたように,契約上の債務は,その履行期に弁済するのが債務の本旨に従った履行となる。これに対して,履行期に債務を履行しないと債務不履行となる。もっとも,履行期より前にも債務自体は存在するので,債務者が弁済期にない債務の弁済として給付をしたとしても,原則として,不当利得にはならない(民法706条本文)。そのような場合には,債務者は,期限の利益を放棄して(民法136条),履行期前に弁済したものとされるからである。ただし,錯誤によって履行期前に弁済したときは,債権者には将来の債権を前もって取得するという利得,すなわち,将来価値から中間利息を控除した現在価値として受け取るべきものを,中間利息を控除せずに将来価値そのものを受け取るという,中間利息分の利得が発生するので,その利益を返還しなければならなくなる(民法706条ただし書き)。なお,不当利得については,第12回の講義で詳しく説明しているので,復習しておこう。
履行の順序は,履行の時期と密接な関係があって,非常に重要である。特に,双務契約においては,どちらかの債務を先に履行しなければならないのか,それとも,同時に履行すればよいのかが問題となる。すなわち,具体的な双務契約の契約類型において,同時履行となる場合とそうでない場合とを何を基準に区別したらよいのか,その判断基準となるものを発見することが大切である。
そこで,13の典型契約のうち,双務契約をピックアップして,2つの債務が同時履行の関係にあるのか,それとも,一方が先履行の関係にあるのかを具体的に検討してみよう。以下の表16-1を参考にしながら,根拠条文に当たって対立する債務を確認して,なぜ一方の債務が先履行となったり,両債務が同時履行となったりするのかを考えてみよう。
双務契約 | 対立する債務 | 履行の順序 | 条文の根拠 | 先履行の理由 | |
一方の債務(A) | 他方の債務(B) | ||||
売買 | 財産権の移転 | 代金の支払い | ABの同時履行 | 民法555条,533条 | − |
交換 | 財産権の移転 | 財産権の移転 | ABの同時履行 | 民法586条 | − |
賃貸借 | 物の使用・収益 | 賃料(敷金を含む)の支払い | ABの同時履行 | 民法316条,619条,614条 | − |
物の使用・収益 (修繕等を含む) |
賃料(敷金等なし)の支払い (後払い) |
Aの先履行 | 民法614条 | 当事者の一方の履行のみが一定の期間を要する | |
雇用 | 労務に従事 | 報酬の支払い | Aの先履行 | 民法624条 | |
請負 | 仕事の完成 | 報酬の支払い | Aの先履行 | 民法633条 | |
有償委任 | 法律行為 | 報酬の支払い | Aの先履行 | 民法648条2項 | |
有償寄託 | 物の保管 | 報酬の支払い | Aの先履行 | 民法665条による648条の準用 | |
組合 | 出資 | 共同の事業 | 同時履行 | 民法667条 | − |
有償終身定期金 | 元本の提供 | 定期金の給付 | 同時履行 | 民法691条 | − |
和解 | 譲歩・争いの停止 | 譲歩・争いの停止 | 同時履行 | 民法695条 | − |
双務契約の場合,対立する債務は,同時履行となるのが原則(民法533条)であるが,一方が他の履行よりも先に履行しなければならない場合も,かなり多い。一方の債務が他方の債務よりも先に履行しなければならない場合を類型化してみると,UNIDROIT国際商事契約法原則の6.1.4条にうまくまとめられているように,「当事者の一方の履行のみが一定の期間を要する」場合に,「労務提供の先履行,報酬の後払い」の原則が導かれることがわかる。例えば,雇用契約の場合のように労務に従事してサービスを提供する側は一定の期間を要するが,報酬を支払う側は時間を要しない。このような場合には,時間を要する側が先履行となり,報酬は後払いとなるというわけである。
UNIDROIT Article 6.1.4 - 履行の順序
(1) 契約当事者の履行が同時になされうる限度で,当事者は,別段の事情がない限り,履行を同時にしなければならない。
(2) 当事者の一方の履行のみが一定の期間を要する場合には,その限度で,その当事者は,別段の事情がない限り,その履行を先にしなければならない。
大切なことは,先履行と同時履行との区別の基準が導かれる理由である。労務(サービス)の提供契約の場合,労務の提供が先履行とされる理由は,労務の提供に関する人間の本性にまで遡るものと思われる。一定の期間をかけて労務を提供する場合,労務の提供者が先に報酬を得てしまうと,最善の労務を提供するというインセンティブを失ってしまうという傾向を持っているのが通常の人間の特性だからである。
サボっていたら報酬をもらえない,又は,減らされるかもしれないという緊張感があるからこそ,人間は義務を誠実に果たすのであり,やってもやらなくても給料が満額もらえるということになると,サービスの質は必然的に低下するという考え方が「労務提供の先履行,報酬の後払い」の原則を支えている。そうだとすると,「労務提供の先履行,報酬の後払い」の原則は,いわゆる性悪説,すなわち,労務を提供する前に報酬を先に満額もらってしまったら,手抜きをする誘惑に駆られるのが普通の人の本性だという考え方に基づいているといえよう。
ある契約をする前と後とで,人間の行動パターンが変化することは,モラル・ハザード(道徳心の危機)の問題として詳しく分析されている。例えば,自動車について盗難保険契約を結ぶ前と後とで人間の行動がどう変化するかを考えてみよう。
労務(サービス)の提供に関する契約においても,同じような現象が起こりうる。すなわち,報酬が後払いの契約を締結するか,それとも,報酬が先払いの契約を締結するかで,最善のサービスの提供がなされるかどうかが左右されることになるのである。
このように考えると,理髪店で,料金が後払いとなっている理由が納得できる。それと同時に,同じ理・美容契約であるにもかかわらず,エステティックサロンの料金が前払いとなっていることの危険性も理解できると思われる。さらには,これを機会に,学生諸君の関心事である授業料の前払いの危険性についても議論してみると,先履行・同時履行の問題に対する理解が深まると思われる。
双務契約のように,牽連する債務が互いに対立している場合には,公平の理念に基づき,それらの債務は同時に履行するのが原則である。このことを実現するために,民法は,お互いに他方が債務を履行するまでは,自らも履行しないことを主張することができるという,履行拒絶の抗弁権を各当事者に与えている(民法533条)。そして,履行拒絶の抗弁権は,同時履行の抗弁権ばかりでなく,留置権における目的物の引渡拒絶の抗弁権をも含めて,訴訟上は,すべて,「引換給付判決」によって実現されている。
引換給付判決
民事訴訟において,原告の請求に対し,被告から同時履行の抗弁又は留置権の抗弁が提出された場合に,原告が反対給付を履行することと引換えに被告に対して給付を命じる判決。これは,無条件の給付判決ではないので,原告の一部敗訴判決である。この判決を債務名義として強制執行を行う場合に,反対給付の履行又はその提供は,執行文付与の要件ではなく,執行開始の要件である(民事執行法31条1項)。これは,執行文付与の要件とすると,債権者に先履行をしいることになるからである。
引換給付判決によって実現される履行拒絶の抗弁権には,保護されるべき一方の当事者にのみそれが与えられる場合(留置権における履行拒絶の抗弁権がその典型例)と,当事者双方に与えられる場合(同時履行の抗弁権がその典型例)とがある。したがって,履行拒絶の抗弁権(同時履行の抗弁権を含むより広い概念)は,以下のように分類するとわかりやすいと思われる。
履行拒絶の抗弁権は,結果的には,すべて引換え給付判決を通じて,同時履行の関係に立たされることになる。しかし,双方の利益のための同時履行の抗弁権か,一方の利益のための支払拒絶の抗弁権かを区別することは,抗弁の主張権者は誰か,抗弁権の付いた債権を自働債権として相殺ができるか等を判断する上で重要となるので,上記のように区別して理解することが重要である。
なお,ここで,抗弁と抗弁権という2つの用語法について触れておく。訴訟上の「抗弁」には,訴訟上の抗弁としての「永久的抗弁」(無効の抗弁,権利消滅の抗弁など)と「延期的抗弁」として用いられる実体法上の「抗弁権」(同時履行の抗弁権等の履行拒絶の抗弁権,催告の抗弁権,検索の抗弁権など)がある。実体法では,訴訟上の永久的抗弁(契約の無効や債務の消滅の抗弁)は,契約の有効・無効要件,消滅要件として分類しており,延期的な抗弁に該当するもののみを「抗弁権」として別に扱っている。したがって,実体法上は,同時履行の抗弁権は,抗弁権と呼ぶのが正しく,実体法の用語として「同時履行の抗弁」を用いるのは,訴訟法と実体法とを混同した誤った用語法だと思われる。民法の現代語化において,このことを十分に考慮せずに,誤った条文見出しをつけられてしまっているが,本書では,民法533条の抗弁権は,以上に述べた用語法の方針を堅持し,「同時履行の抗弁権」と表記する。
図16-2 訴訟上の攻撃方法と防御方法と実体法上の権利との関係 (Vgl.D. Medicus, Buergerliches Recht, 17, Aufl. 1996, S. 549.) |
売買のような「双務契約の当事者の一方は,相手方がその債務の履行を提供するまでは,自己の債務の履行を拒むことができる」(民法533条)。この権能を同時履行の抗弁権という。例えば,売買契約が成立すると,売主は代金が支払われるまでは目的物を引き渡さなくてもよく,買主は,目的物が引き渡されるまでは代金を支払わなくてもよい。
これは,売買契約などの双務契約において,対価関係に立つ債務の間に履行上の牽連関係を認める制度であり,自分の債務を履行せずに相手方の債務の履行だけを請求することは公平に反するという趣旨に基づき,債務者に履行を拒否する権能が与えられたものである。
双務契約における牽連関係には,以下のものがある。
同時履行の抗弁権は,公平に基づく制度であるため,当事者の合意でどちらかの債務を先に履行すると決めていた場合には(先履行の特約),その特約が信義則に反しない限り,この抗弁を主張することはできない。例えば,上記の例で,代金は後払いという特約がある場合には,売主は目的物の引渡しを拒めない。
同時履行の抗弁権としての履行拒絶の抗弁権は,訴訟上は,引換え給付判決によって実現される。そして,履行拒絶の抗弁権には,同時履行の抗弁権だけでなく,留置権における引渡拒絶の抗弁権を含めて,一方の当事者の利益のために認められる抗弁権が含まれており,同時履行の抗弁権といわれているものの中にも,そのような性質が少し異なる履行拒絶の抗弁権が紛れ込んでいることに注意する必要があることは,すでに,述べたとおりである。
同時履行の抗弁権の類似の制度として,留置権の制度がある。両者は,沿革的にみても関連する制度である。しかし,わが民法は,留置権を担保物権として位置づけており(民法295条),留置権を,ある物に牽連して生じた債権を保全するために,その債権の弁済を受けるまでは,その物の返還を拒絶できることによって債権の回収を確実にするという「履行拒絶の抗弁権」(同時履行の抗弁権の一類型であるが,履行拒絶の抗弁権が牽連する物の留置によって公示されているため,第三者に対しても,特別にその効力を有する)として構成することはしなかった。
この結果,一般には,同時履行の抗弁権は,双務契約に基づく単なる対人的拒絶権能にすぎないが,留置権はすべての人に対抗できる物権的権能であると理解されている。しかし,対人的拒絶権能が第三者にも対抗できるかどうかは,それが,債権か物権かで決まるものではない。債権であっても,例えば,債権譲渡は,債務者に対する通知,または,債務者の承諾によって第三者に対抗できるし(民法467条),物権の典型とされる不動産所有権であっても,登記がなければ第三者に対抗できない(民法177条)。
このように,第三者に対抗できる対世権であるかどうかは,社会政策上の考慮(例えば,一般先取特権は,物権の対抗要件としての引渡も登記もなしに,第三者に対抗できる),または,第三者に対する公示(占有の移転,又は,登記)によって認められるものである。
したがって,留置権を物権として構成せず,物に牽連して生じた債権について,その債権が履行されるまで,単に,債権者にその物の引渡拒絶の抗弁権を与え,しかし,その物の占有が継続されている限りで,その引渡拒絶の抗弁権を第三者に対抗できると構成しても,何の不都合も生じない。つまり,同時履行の抗弁権であっても,問題となる二つの債務に牽連性が認められ,公示がなされているのと同様であると認められる場合には,第三者に対する対抗力が認められてもよい。例えば,最近の消費者保護の機運の高まりの中で,消費者が販売業者に対して有する抗弁権(同時履行の抗弁権を含む)をもって,第三者であるクレジット会社に対抗できるとすることが認められている(割賦販売法30条の4)。この場合,消費者の販売業者に対する抗弁権をもって,クレジット会社に対抗できるとされている理由は,売買契約から生じた同時履行の抗弁権とクレジット契約に基づく支払請求権とが密接不可分に関連しており,クレジット会社は,その支払請求権と売買契約との牽連関係を知っているからであると思われる。この考え方は,他の場合にも類推されてよい。
留置権は他人の物を留置し得るに止まるが,同時履行の抗弁権は,給付の内容いかんを問わず,履行を拒絶できる。しかし,両者は相排斥するものではなく,時には両者が併存することもある。例えば,自動車の修理を依頼した事例において,修理業者は同時履行の抗弁権と留意権とを併有する。もっとも,直接占有をしていない依頼者は,同時履行の抗弁権のみを有するに過ぎない。
このように,同時履行の抗弁権は,双務契約における双方の債務が広い意味での対価関係にあることから,特段の事情もないのに当事者の一方に他方より先に履行することを強いることのないようにすること,すなわち双方の債務の履行を相互に担保することが目的であり,留置権は,その物についての債権を担保することが目的であるから,債権の側から見てその担保のための制度である点は共通といえる。
当事者が互に債務を負担していても,それが別の契約から生じたものである場合や,また同一の契約から生じた債務であっても,その債務相互間に対価関係の存しない場合には,厳密な意味での同時履行の抗弁権は成立しない。逆からいえば,一つの契約から,複数の債権が発生している場合に,どの債権とどの債権に対価関係を認めるかが問題になり,中心的債権・債務同士かどうかなどを一応の基準として,公平の観点から具体的に判断することになる。
実質的公平の要請から,厳密には,総務契約上の対価関係にある2つの債務が対立するという要件に合致しない場合にも,同時履行の抗弁権が拡張的に認められる場合がある。
同時履行の抗弁権は,双方の債務が弁済期になければ成立しない(民法533条ただし書き)。自らの債務の履行期が到来し,相手方から履行の請求をされた場合において,相手方の債務が弁済期になければ自らの履行を拒絶できない。
相手方Aの提供を受領しないで受領遅滞に陥ったBに対し,AがBに反対給付の請求をした場合,その請求についてはBは同時履行の抗弁権を主張できるか。
最後に,債務の一部履行又は不完全履行の場合,対価関係にある債務の全部について同時履行の抗弁権を主張することができるだろうか。
対価関係にある債務が可分な場合は,原則として,相手方がなお履行しない部分又はその履行の不完全な部分に相当するだけの債務の履行を拒絶することができる。例えば,家屋の修繕義務を負う賃貸人が修繕を怠るときは,賃借人はそれに相応するだけの家賃額の支払いを拒絶することができる(大判大正5・5・22民録22輯1011頁)。ただし,不履行の部分又は不完全な部分が僅少軽微なものであるときは,信義則の建前から,一部についても同時履行の抗弁権は主張できないと解される(大判大正6・3・7民録23輯342頁)。逆に不履行の部分,不完全な部分が大きいときは,全部について同時履行の抗弁権を主張できる。
同時履行の抗弁権は,上述の成立要件が備われば成立するのであるが,履行拒絶の効果という面からいえば,これを行使しない限り現実化せず,行使を待ってはじめてその機能を発揮することになる(行使効)。
行使の時期,方法については別段の制限はない。履行期以後ならばよく,相手方からの履行の請求があったときに行使すればよい。被告が同時履行の抗弁権を行使したときは,裁判所は,原告の請求を棄却する判決をするのではなく,被告に対し,原告の給付と引換えに給付すべき旨を命ずる判決(引換給付判決)をすることになる(大判大正7・4・15民録24輯687頁)。
なお,同時履行の抗弁権は,これを行使することによって本来的効力を生ずるのであるが,次のように,これが存在するだけで別個の効力をもつ場合がある(存在効)。
同時履行の抗弁権の付着する債権を自働債権として相殺することはできない。例えば,AがBに物を売りBに対して代金債権を取得したとする(Aの物の引渡債務とBの代金支払債務とは,同時履行の関係)。しかし,Aは,Bから金を借りていて,BがAに対して貸金債権を持っているという場合,Aは,物の引渡しについて履行の提供(493条)もしないうちに,自己の代金債権を自働債権とし,Bの貸金債権を受働債権として相殺することは許されない。なぜなら,もしそれが許されるなら,Aが自己の物の引渡債務を履行するより前に,Bに対し代金の支払いを強制したのと同様の結果(Bが同時履行の抗弁権を失うに等しい結果)となり,公平に反するからである。
この法理に反して,自働債権(注文主の瑕疵修補に代わる損害賠償債権)に民法634条2項によって同時履行の抗弁権(請負人の注文主に対する報酬債権)が付着する場合に,注文主が報酬債権を受働債権として相殺することを認める判決が出されている(最三判平9・7・15民集51巻6号2581頁)。
最三判平9・7・15民集51巻6号2581頁(請負工事代金請求,民訴法198条2項の裁判申立事件)
請負人の報酬債権に対し注文者がこれと同時履行の関係にある瑕疵修補に代わる損害賠償債権を自働債権とする相殺の意思表示をした場合,注文者は,相殺後の報酬残債務について,相殺の意思表示をした日の翌日から履行遅滞による責任を負う。
この判決が,注文主の修補に代わる損害賠償債権を自働債権に対して,同時履行の抗弁権(請負人の報酬債権)が付着しているにもかかわらず,相殺を認めた背景には,この場合の同時履行の抗弁権(民法634条)が,本来の同時履行の抗弁権(民法533条)とは異なり,注文主の修補請求権を確実にするために,請負人からの報酬請求を拒絶するために,一方の当事者である注文主のみに認められた「履行拒絶の抗弁権」であるという事実がある。このため,注文主の方から相殺をする場合には,同時履行の抗弁権が注文主のためにあるために,これを無視して,相殺をすることが認められたものと思われる。
同時履行の抗弁権を有する債務者は履行遅滞にならない。したがって,相手方が解除するには,自己の債務について履行の提供をしなければならないことになる。
しかし,すべての場合にこの効果が認められるわけでなく,例えば,A,B間の双務契約において,BがBの責めに帰すべき事由により債務の履行不能に陥ったときとか,Bにおいて自己の債務を履行しない意思が明確な場合には,Bはもはや同時履行の抗弁権を有しないから,Aは,Aの債務につき弁済の提供をすることなく,Bに対し債務の不履行につき直ちにその責任を問うことができる(最判昭和41・3・22民集20巻3号468頁)。
以下の表16-2は,同時履行の抗弁権が認められる場合と認められる場合とを対比すると言う観点から同時履行の抗弁権をまとめたものである。
要件と効果 | 同時履行の抗弁権が認められる場合 | 同時履行の抗弁権が認められない場合 | |
---|---|---|---|
双務契約上の2つの債務の存在 | ・適用 ・目的物の引渡債務と登記移転債務(最一判昭34・6・25判時192号16頁) ・準用 ・解除による対立する原状回復義務の履行(546条), ・売主の担保責任としての代金返還債権と目的物の返還債権(571条),注文者の瑕疵の修補に関する損害賠償請求権と請負人の報酬請求権(634条2項) ・類推 ・双務契約が無効・取消しにより,不当利得返還義務を双方に生じる場合(最三判昭28・6・16民集7巻6号629頁,最一判昭47・9・7民集26巻7号1327頁) ・弁済と受取証書の交付(民法486条) ・建物買取請求権における代金支払債務と建物引渡債務 ・借地上の建物につき建物買取請求権(借地借家法13条1項,14条)が行使された場合に,建物の引渡しと代金支払いは同時履行の関係に立ち,その反射的効果として敷地の引渡しも拒むことができる(最判昭和35・9・20民集14巻11号2227頁)。 |
・これに反して,借家につき造作買取請求権(借地借家法33条)が行使された場合に,造作代金支払いと対価性があるのは造作のみであるとして,建物引渡しとの間には同時履行の関係を認めない(最判昭和29・7・22民集8巻7号1425頁)。だだし,学説は,これに反対するものが多い。 | |
双方の債務が弁済期にあること | ・双務契約の当事者の一方が先履行義務を負担している場合において,後履行義務者の財産状態が,契約締結後に,甚だしく悪化し,その債務の履行に不安を生じ,先履行義務者に先履行を強いることが信義則に反するとき(不安の抗弁権) 後履行義務者が担保を供与するなど債務履行確保措置をとらない限り,先履行義務者は先履行を拒むことができる(東京高判昭62・3・30判時1236号75頁,東京地判平2・12・20判時1389号79頁) |
・賃貸借,請負,委任などのように,対価が後払いとされる契約(614条,24条,633条,648条2項)の場合 ・先履行の特約がある場合(大判大正10・6・25民録27輯1247頁,大判昭和12・2・9民集16巻33頁) ・貸金返還債務と担保物権の登記抹消義務の間の関係 借主が先履行義務を負うので,登記抹消との引換給付を求めることはできない(最判昭和41・9・16判時460号52頁,最判昭和63・4・8判時1277号119頁)ただし,実務はこれとは反対に同時履行の関係を認めている。学説もこれを是認するものが多い。 ・家屋明渡請求と敷金返還請求 家屋の賃貸借終了に伴う賃借人の家屋明渡債務と賃貸人の敷金返還債務についても,同様に同時履行の関係を否定する(最判昭和49・9・2民集28巻6号1152頁)。学説はこれに反対するものが多い。 |
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相手方が履行又はその提供をしないで履行の請求をすること | 当事者の一方Aがひとたぴ履行の提供をしても,それが受領されず債務の履行がない間はその債務をまぬがれるわけではないから,両債務の履行上の牽連関係はなお存続し,その提供を継続しない以上,Bは同時履行の抗弁権を主張できる(大判明治44・12・11民録17輯772頁,最判昭和34・5・14民集13巻5号609頁)。 | ||
効果 | ・引換給付判決 ・抗弁権の付着した債務の相殺の禁止 ・違法性の阻却 |
同時履行の抗弁権の付着する債権を自働債権として相殺することはできない。例えば,AがBに物を売りBに対して代金債権を取得したとする(Aの物の引渡債務とBの代金支払債務とは,同時履行の関係)。しかし,Aは,Bから金を借りていて,BがAに対して貸金債権を持っているという場合,Aは,物の引渡しについて履行の提供(493条)もしないうちに,自己の代金債権を自働債権とし,Bの貸金債権を受働債権として相殺することは許されない。 なぜなら,もしそれが許されるなら,Aが自己の物の引渡債務を履行するより前に,Bに対し代金の支払いを強制したのと同様の結果(Bが同時履行の抗弁権を失うに等しい結果)となり,公平に反するからである。 ただし,同時履行の抗弁権が一方当事者の権利を保護するために認められている場合(履行拒絶の抗弁権)には,保護されるべき当事者が同時履行の抗弁権が付着する債権を自働債権として相殺することができる(最三判平9・7・15民集51巻6号2581頁)。 |
同時履行の抗弁権は,公平の考え方の現れであるから,原則として認められるべきものである。したがって,どのような場合に認められなくなるのかに重点を置いてチェックを行うと,全体としての「公平の考え方」の射程についての理解が深まると思われる。
「履行(弁済)の場所」に関しては,民法は,債権総論において,弁済の場所について,民法484条が規定をしており,契約各論において,売買代金の弁済の場所について,民法574条が規定をしている。この2つの規定の関係がどのような関係にあるのか,すなわち,総論と各論とはどのようにリンクされているのかを,実際の事例に基づいて明らかにし,そのことを通じて,民法の命は総論と各論の絶妙なコンビネーションにあることを示したいと思う。
第484条(弁済の場所)
弁済をすべき場所について別段の意思表示がないときは,特定物の引渡しは債権発生の時にその物が存在した場所において,その他の弁済は債権者の現在の住所において,それぞれしなければならない。
第574条(代金の支払場所)
売買の目的物の引渡しと同時に代金を支払うべきときは,その引渡しの場所において支払わなければならない。
普通の教科書では,契約各論にある代金の支払場所(民法574条)は,民法総論にある弁済の場所(民法484条)の例外規定であるということしか書かれていない。しかし,両者の関係をきちんと理解すると,民法全体を理解する大きな転機に恵まれるという重要な箇所なので,よく理解してほしい。
まず,民法484条を理解するために,履行の場所に関する立法例を対照してみよう。
立法等の例 | 特定物の引渡債務 | 種類物の引渡債務 | 金銭債務 | その他の作為債務 |
---|---|---|---|---|
旧民法 | 合意の当時の目的物の所在地 (債務者の住所) |
特定のための指定がなされた場所 (債務者の住所) |
債務者の住所 | |
現行民法 | 債権発生時の目的物の所在地 (債務者の住所) |
債権者の住所 | ||
UNIDROIT原則 ヨーロッパ契約法原則 |
債務者の住所 | 債権者の住所 | 債務者の住所 |
旧民法は,フランス民法にならって,極端な債務者主義(取立債務)を採用していた。これに対して,現行法は,特定物の引渡しにおける債務者の住所地(物の所在地)を除いて,債権者主義(持参債務)を中心に構成し直した。これに対して,世界の傾向としては,金銭債務のみについて債権者主義が採用されており,その他の債務は,原則として債務者主義をとり,場合に応じて,特約で場所を定めるという傾向にあるといえよう。わが国の立場と世界的な流れとの相違点は,金銭債務以外の「その他の作為義務」のところを考えてみるとわかる。
現行法の債権者主義は,特に,サービス提供契約について,社会の実情にそぐわなくなっている。その原因は,交通機関の飛躍的発展によって,サービス提供契約は,自宅への出張サービス(往診等の出張サービス等)よりも,設備の整ったサービス提供者の場所(病院,美容院,レストラン,大型店など)でサービスを受けることが多くなったためである。
確かに,現行民法の立法当時は,顧客(債権者)の住所地で履行すること,すなわち,往診や出前がすごく多かった。髪結い,床屋さんなどの場合も,顧客(債権者)の住所地まで出張してくれていた。その当時の有産階級は,お医者さんにも,髪結いさんにも,みんな顧客(債権者)の家に来てもらっていたようです。しかし,今の世の中,お医者さんはまだしも,髪結いさんを自宅に呼ぶなどということはない。顧客(債権者)としても,家が散らかっていると来られても困る。医者の場合でも,現在では,体温計,聴診器とわずかな道具だけで診療することは困難になっている。顧客(債権者)に設備の揃った場所に来てもらって,科学的な診療を行うことの方が多くなっている。このように,現代においては,金銭債務以外の「その他の債務」は,役務提供者(債務者)のところに来てもらわないとできないことが多い。現代では車も普及しているから,顧客(債権者)の方で,役務提供者(債務者)のところまで,さっと行く事ができる。普通の買い物でも,顧客(債権者)の方で,設備と品揃えの良い量販店に出向く。こんなふうに考えると,金銭債務以外の作為債務については,現行法とは異なり,履行地は,債務者の住所地へと向かっているといえる。医療債務については,それが象徴的に現れている。民法が作られた当時に主流であった往診が,今やほとんどなくなってきている。
さて,もう一度,民法484条を見てみよう。意思表示がないときは,特定物の引渡債務以外のその他の債務の弁済は債権者の住所ってなっている。ところが,今まで詳しく説明してきたように,この部分のうち,金銭債務以外の行為債務については,現代社会の実態からは,大きく,外れてしまっている。世界的な傾向でも,金銭債務以外の債務の履行地は,債務者の住所地となっている。
そこで,任意規定である民法484条の解釈を実態に即して変更する必要がある。日本でも,取引慣行に照らして,金銭債務以外のその他の債務に関しては,債務者の住所地で履行を行うとの黙示の意思があると解釈すればいいということになるのではないだろうか。
以上の点を念頭に置いて,以下の練習問題を解いてみよう。
【練習問題】
以下の事例を読んで,代金の支払場所について考察しなさい。
Aさんは,通信販売でB社のワンピースを購入することにした。C宅配便の人がワンピースを届けてくれたので,試着してみたところ,ぴったりで問題がない。そこで,代金を支払おうと思う。同封の振込用紙にB社の銀行口座名が書かれている。この場合,近くのD銀行で代金を振り込むことにしようと思うが,民法の原則によると,代金はどこで支払うのが本筋であろうか。 もしも,銀行の手続ミスで,代金がB社に支払われなかった場合,Aさんは,D銀行に対して,責任を追及できることは当然であるが,B社に対する関係では,期日までに支払ができなかったことになり,債務不履行責任を負わなければならないのだろうか。それとも,商品の引渡しのときに代金を回収しなかったB社の責任となって,B社が手続ミスをしたD銀行から代金を回収することになるのであろうか。 |
上記の事例を手がかりとし,以下の参照序文,参考判例および教科書の該当箇所を読んで,以下の設問に対する回答例を作成しなさい。
さて,通信販売の場合は,返品に応じると書いてあるのが普通である。通信販売の場合は,はクーリング・オフが出来ないので,返品に応じられないときは,「返品には応じられない」ということを広告にしっかり書かなくてはいけないことになっている(特定商取引法11条1項4号)。
いずれにせよ,通信販売の場合には,商品の引渡しと代金の支払とは,同時ではない。「代引き(代金との引換えで配達をすること)」を使ったときは同時履行となるが,そうでない場合,同時履行ではないので,代金は債権者の住所地に持参して払わなければならない。なお,債権者とは誰かについては,サービスの提供の問題(債権者は顧客)なのか,代金の問題(債権者は,サービスの提供者)なのかで債権者と債務者とが入れ替わるので,注意が必要である。
次に,売買代金の支払場所を規定する民法574条を見てみよう。この条文では,代金債務が問題となっているので,債務者とは売主のことになる。民法574条の例としては,「代引き」を使った場合がその典型例になる。この場合は,通信販売で物を持ってくれているから,履行の場所は,買主(債務者)の自宅ですよね。じゃあ,通常の,代引きではなく,代金後払いの通信販売はどうなるのか?というのが問題である。
講師:Aさん,代金の支払場所はどこになると思いますか?
学生A:この場合は,既にワンピースは引渡しているので574条の適用はなく,484条が適用され,金銭を支払わなくてはいけないので,その他の弁済は債権者の住所とあるので,B社でしなければならないと思います。
講師:そのとおり。引渡しと同時でない代金の支払いについては,民法575条は規定していないのですね。各論に規定がないので,そのときは総論に戻る。それで,この場合には,弁済の場所に関する民法484条が適用されるのです。
民法574条は,見出しが,「代金弁済の場所」と書いてあるにもかかわらず,代金弁済の場所がどこかについての答えは,この条文,すなわち,契約各論の575条の規定だけでは,解決できない。
これは,立法者のいじわるだといわなければならない。確かに,現行民法の起草者は,総論に書いてあることは各論に書かないという建前を貫いている。民法574条の元になった旧民法には,同時履行以外の場合には,民法484条に該当する条文が適用されれると書いてあったのを,現行法では,わざと消したのである。
具体的に言うと,旧民法には財産取得編第75条2項があった。同時履行でないとき,弁済は,買主の住所においてなすという以下のような規定であった。
旧民法 財産取得編 第75条
(1)代金弁済ノ場所ヲ合意セサルトキハ其弁済ハ有体動産ニ付テハ引渡ヲ為ス場所不動産,債権,争ニ係ル権利又ハ会社ニ於ケル権利ニ付テハ証書ノ交付ヲ為ス場所ニ於テ之ヲ為ス
(2)引渡ノ前又ハ後ニ代金ノ弁済ヲ要求スルコトヲ得ヘキトキハ其弁済ハ買主ノ住所ニ於テ之ヲ為ス
これが,現行法に改正されたときに,弁済の場所は債権者である売主の住所においてなすことになった。そこで,債務者である買主の住所地としている2項を書き換えて,債権者である売主の住所地としておけば,わかりやすかった。しかし,現行民法の起草者は,2項を書き換えることをせず,わざわざ消してしまった。その理由は,債権総則の民法484条と重複するから消したというものである。
講師:このような立法技術に対ししてどう思いますか?法科大学院の学生としてどのような感想をもたれますか?
学生B:とてもわかりにくいと思います。
講師:そうです。「言わなくてもいいことは書かぬ!」というのが,現行民法の立法理由書に何度も出てくる言葉なのですよ。確かに,体系的にはそうかもしれない。しかし,国民にとっては,わかりにくい。そこで,目の毒かもしれませんけれど,民法改正に関する加賀山私案を紹介しておきます。
第484条・改正案(弁済の場所)
(1)弁済をすべき場所について別段の意思表示がないときは,特定物の引渡の場合は,債権発生の当時その物の存在した場所で,種類物の引渡の場合は,種類物の特定の当時その物の存在した場所で,その他の引渡債務(金銭債務)の弁済は,債権者の現時の住所でこれをしなければならない。
(2)その他の債務(作為債務)については,債務者の現時の住所で弁済をしなければならない。
第574条・改正案(代金支払場所)
(1)売買代金の支払は,第484条1項の規定に従い,債権者である売主の住所でこれをしなければならない。
(2)売買の目的物の引渡と同時に代金を払うべきときは,買主は,第533条の規定の趣旨にしたがって,その引渡の場所で支払うことができる。
さて,代金の支払場所に関する民法574条を起草するに際して参照されたフランス民法1651条ではどう書かれていたかというと,以下のように規定されている。
フランス民法典 第1651条 代金支払について売買当時においてなんらの定めもない場合には,買主は目的物の引渡のなされるべき場所,および,目的物の引渡のなされるべき時点において,代金を支払うことを要する。
日本の現行民法は,これをもとに起草されたのであるが,フランス民法の場合には,場所と時期とが同時に書かれている。つまり,1つの条文にまとまっている。ところが,日本民法の場合は,それを,代金の支払時期である民法573条と代金の支払場所である民法574条に分離してしまい,わかりにくくなってしまった。一緒に規定されていればもう少しわかりやすくなっていた。しかし,現行民法574条にも,573条へと分離されたはずの時期に関する記述が残っている。すなわち,引渡しと「同時」にという記述が残っている。
講師:さて,ここで問題です。民法574条に書かれている「同時に」という言葉を見て,何か思い出しませんか。
学生C:同時履行の抗弁を思い出します。
講師:そう。厳密に言うと,「同時履行の抗弁権」ですね。人間の身体は1つですから,同時にということになると,物の引渡しのところで支払わざるを得ませんよね。
このように考えてみると,民法574条は,同時履行でない場合には,民法484条がそのまま適用される。旧民法では存在した2項が,民法484条と重複するとして消されただけである。つまり,代金支払は,同時履行でない場合には,484条の原則どおりでよい。例外といわれている民法574条は,すべてが民法484条の例外を規定しているわけではないことが理解できる。
契約各論である民法債権各論に規定がない場合には,すぐに債権総論まで直行しないで,順序よく,直近の契約総則を探してみる。民法574条で,同時と書かれているので,契約総論の同時履行の考え方が使われていることに気づけばしめたものである。
つまり,問題解決に際して,契約各論に適用できる条文がない場合には,次に,契約総則の規定を見る。それでもまだないときに,はじめて,債権総論に行くことになる。このように順序を踏んで考えると,民法574条は,決して,民法484条の単なる例外規定ではなくて,契約総論の原則規定(同時履行の抗弁権)の趣旨の適用である,ということになる。従来の教科書の説明は,ワンステップ分抜けてるので,わかりにくかったが,それを埋めると以上の通りとなる。
異時履行の場合の弁済の場所について,民法484条が適用されていることは,本来あるべき契約各論の規定(旧民法財産取得編第75条2項に該当する規定)が,立法者の考え方によって削除されているだけであって,民法574条は,同時履行の場合のことだけ規定されているのであり,それは,契約総則の同時履行関係というものを尊重しているに過ぎない。
民法574条の条文には規定されていない異時履行の場合には,原則どおり民法484条がそのまま適用される。これに対して,同時履行の場合,例えば,「代引き」のときは,契約総論の同時履行の考え方に則って規定された民法574条が使われる。そう考えると話がわかりやすくなる。条文の適用の順序が,各論から始まって,規定がない場合には,ひとつ上の契約総論に遡り,そこにもない場合には,さらにひとつ上の債権総論に遡るということになるということが,この問題を通じて理解できたと思う。
履行の費用については2つの条文がある。これも,履行の場所の場合と同じで,債権総論と売買のところにある。民法485条(弁済の費用)と民法558条(売買契約に関する費用)である。
弁済の費用とは,運送費・荷造費などをいうとされている。弁済の費用は,特段の意思表示がない場合には,民法485条に従って債務者が負担する。これに対して,契約費用とは,契約書の作成費や目的物の鑑定のための費用等のことをいうとされている。契約費用の場合は,民法558条に従って,当事者双方が平分して負担する。
もっとも,弁済の費用と契約費用との区別はそれほどはっきりしていない。不動産売買の登記に要する費用は,弁済の費用として売主が負担するのか,契約費用として売主と買主が平分して負担するのかが問題となった事例で,大審院は,契約費用であると判示した(大判大7・11・1民録24輯2103頁)。もっとも,不動産取引においては,登記費用は買主が負担するとの特約が一般に利用されているため,登記費用が弁済の費用か契約費用かを論じる実益は少なくなっている。
しかし,弁済の費用と契約費用とを区別する実益がないわけではない。弁済の費用と契約費用との区別の基準は,以下のように考えるべきである。すなわち,債務者が弁済する際に要する費用のうち,契約の相手方にとっても有益である費用であり,かつ,その費用の対象となる債務者の行為に相手方も協力すべき関係にある場合を契約費用と考えるのが正当であろう。
このように考えると,契約書の作成費用,目的物の鑑定費用等は,相手方にとっても有益であり,かつ,相手方もその行為に協力すべきであるため,契約費用と考えるのが正当であろう。また,争いのある登記費用についても,これは,本来,登記義務者である売主の弁済の費用であるが,買主にとっても,登記を行なうことは有益であり,かつ,登記に協力することが義務付けられているのであるから(共同申請主義),契約費用と解するのが正当である。したがって,特約がなければ,登記費用は契約当事者で平分するのが本筋であり,すべてを買主に負担させている不動産取引の現状は,買主に一方的に負担を強いるものであり,売主が事業者である場合には,不公正な取引慣行として,消費者契約法によって無効とされるおそれがあるというべきである。
以上のように考えた場合,民法485条と民法558条との関係をどのように考えるべきであろうか。契約費用に関する民法558条の規定は,弁済の費用に関する民法485条の特則であると考えるのが一般的である。しかし,契約費用を,上記のように,その支出が相手方にとっても有益であり,かつ,相手方もその支出行為に協力すべきであるとすれば,相手方もその費用を負担する義務がある。その場合の各当事者の負担割合は,民法427条に従えば,平等の割合で負担すべきであるということになる。有償契約の場合には,各当事者の債務は対価的に均衡していると考えられるから,契約費用を各当事者が平分して負担することは,この点でも合理的である。
そうだとすると,民法558条は,民法485条の単なる特則ではなく,民法485条と民法427条の組み合わせによって説明される民法485条の具体化の例と考えることも可能であろう。そうだとすると,現行民法の弁済の費用と,売買費用に関する条文との関係を明らかにするためには,民法558条を以下のように改正するのがよいと思われる。
第485条(弁済の費用)
弁済の費用について別段の意思表示がないときは,その費用は,債務者の負担とする。ただし,債権者が住所の移転その他の行為によって弁済の費用を増加させたときは,その増加額は,債権者の負担とする。
第558条・改正案(売買契約に関する費用費用)
売買契約に関する費用は,その結果が双方に利益をもたらすものであることに鑑み,民法485条の但し書きの法理,および,民法427条の趣旨に基づいて,当事者の双方が平分してこれを負担する。
以上で,弁済の場所の場合と同様,弁済の費用に関しても,債権総論の共通ルールが有償契約において具体化されるという,よい関係を示していることが示されたと思われる。
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