作成:2016年1月18日
明治学院大学法学部教授 加賀山 茂
黄宗楽 『天公疼戇人 七十三自述』 前衛出版社(2018/05) 59-63頁 |
黄 宗樂先生が,自伝をご出版されるとお聞きし,先生の恩恵を受けた日本人の一人として,一文を献呈させていただきたいと思う。
黄 宗樂先生は,1970年から1975年の間,日本に留学された。そして,当時,留学生としては,学位の取得が最も困難と思われていた大阪大学のような国立大学(特に七つの旧帝国大学)において,1975年に法学博士の学位を取得された。このことは,わが国,特に,関西地方の課程博士の授与の歴史にとって,画期的な出来事であったように思う。
今では,博士の学位は,留学生に対して,国立大学においても以前よりも緩やかに与えられるようになった。しかし,当時(1970年代)は,留学生はおろか,日本人でも,博士課程修了と同時に学位を取得することは,ほとんど不可能であった。わずかに,民法学の泰斗である京都大学の北川善太郎博士が,1962年に,例外的にその偉業を成し遂げられたことが,尊敬の念を持って語り継がれているほどであった。 したがって,その当時は,学位を取得することを希望して日本に留学して,優秀な成績を収めても,学位には手が届かないのが通常であって,日本の国立大学における,このような意固地な教授陣の態度は,留学生にとって,突破することが不可能に近い障害となって立ちふさがっていたのである。
黄 宗樂先生が日本に留学された時代(1970年代)には,先に述べたように,留学生は,たとえ博士課程は修了できても,博士の学位をとることができずに,本国に帰国せざるを得なかったのである。そのような時代背景の中にあって,1975年に,黄 宗樂先生が留学生として博士の学位を取得されたことは,その後の日本に来る留学生にとって,大きな希望を与えることになった。
現に,黄 宗樂先生が学位を取得された後は,何人もの留学生が,国立大学で学位をとることに成功している。その意味で,黄 宗樂先生は,新しい時代を切り開き,後輩たちに希望の光を与えた,日本における学位取得のパイオニアということができよう。
したがって,黄 宗樂先生が,そのような高い壁をどのようにして越えることができたのかを明らかにされることは,困難に立ち向かおうとしているすべての人々にとって,とくに,弱い立場を跳ね返そうとしている人々にとって,福音となると思われる。この意味でも,黄 宗樂先生が自伝を執筆され,出版されることには大きな意味がある。
私は,黄 宗樂先生が,日本に留学され,博士論文を執筆される過程で,日本語の適切さのチェックをするお手伝いをさせていただいたのであるが,その過程で,黄 宗樂先生から多くのことを学ぶことができた。
第1に,目標を定めたら,どんな困難に遭遇しても,あきらめずに,初志を貫徹するという強い意志に心を打たれた。実は,私も,目上の人に対して,遠慮なくものを言うタイプだったため,結局,母校に残ることができずに,1979年に,大学ではなく,消費者保護機関である国民生活センターに就職することになるのだが,黄 宗樂先生の生き方から多くを学んでいたため,あきらめることなく勉学を継続し,4年半をへて,1984年に大学の研究職へと復帰することができたのである。
第2に,黄 宗樂先生の読書量の多さと,読解の質の高さに多くを学んだ。黄 宗樂先生の研究テーマは,「イギリスの浮動担保(floating charge)の研究」であったが,イギリスの判決を丹念に読み込み,しかも,関連する日本の図書・論文をすべて読み込んだ上で,原稿を執筆されており,私が直した日本語の方が,むしろ,誤りであったこともたびたびであった。
たとえば,私が,黄 宗樂先生の原稿を校正していて,日本語の表現がおかしいと思う箇所を見つけて,黄 宗樂先生に,「この表現は,日本語としては,よくないと思います。」と申し上げると,黄 宗樂先生は,「いや,我妻先生も,その表現を使われていますよ。」といって,我妻先生の教科書を開きながら,該当箇所を見せられたときは,逆に,私の方が日本語の適切な使い方を学ぶことになった。
また,原稿が完成に近づき,黄 宗樂先生が,「不敏な私を両親が励ましてくれた。」という趣旨のことを書かれているのを見て,私が,「不敏という言葉は,他人が使うのはよいが,自分に使うのはよくないと思います。」と指摘すると,黄 宗樂先生が,「加賀山さん,中野先生も,この表現を使われていますよ。」といいつつ,私の恩師でもある中野貞一郎先生の著書を開きながら,該当箇所を示されたときは,これまた,一本とられたと思った。
そんなわけで,黄 宗樂先生の膨大で質の高い原稿を読んで,日本語のチェックをするのは大変だったが,私の勉強にもなり,研究のはげみともなった。今となっては,とても懐かしい思い出である。
黄 宗樂先生との交流を通じて私が得たものは計り知れないが,勉学の間に交わした会話の中で,特に強い印象を受けたことがある。私は,背が低く貫禄がある風貌ではない。しかし,黄 宗樂先生が「加賀山さんは,学者らしい風貌を備えている。私は,そのような風貌は備えていない。だから,立派な学者になるためには,みんなが納得せざるをえないように,人一倍努力しなければならない。」とおっしゃられたことを思い出す。
黄 宗樂先生は,両親が大富豪だったり,政界の大立者だったりしたわけではない。いわゆる生まれながらのコネ(connection)は持っていない。顔立ちも,いかにも学者というタイプではない。それにもかかわらず,人一倍の努力をして,学力を身つけ,誰もが羨む才色兼備の女性を伴侶とし,しかも,博士号を取得するのが最も難しいといわれていた日本に留学して,博士号を取得された。そして,帰国後も,人一倍の努力をして,台湾大学法律学院教授,公平取引委員会主任委員,KETAGALAN学校・校長など,立身出世を果たされた立志伝中の人物である。そこに至るまでの人生の苦闘のプロセスを公開されることは,何のコネもないが,大志を抱いている若い人々にとって,大きな希望を与えることになると思われる。
私は,中国語を読むことができないので,黄 宗樂先生の書物をつぶさに読んだわけではないが,この本の趣旨のひとつは,若い人々に対して,コネがなくても,努力の仕方によっては,自分の夢をかなえることはできるのだということを示すものとなっていると考えている。
若い人々が,自らの夢を実現するために,この書を熟読し,参考になる点を糧として,黄 宗樂先生が実践されたように,信念をもって,さまざまな壁を乗り越えることを願っている。
http://cyberlawschool.jp/kagayama/
1972年 大阪大学法学部卒業
1972年 大阪大学大学院法学研究科修士課程入学 民事法学専攻
黄 宗樂先生の論文作成における日本語チェックを担当する
1974年 大阪大学大学院法学研究科修士課程修了
1975年 大阪大学大学院法学研究科博士課程入学 民事法学専攻
黄 宗樂先生,大阪大学博士(法学)を取得される
1979年 大阪大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学
1979年 国民生活センターに就職 研修部教務課に勤務
1984年 国民生活センター(研修部教務課課長補佐)退職
1984年 大阪大学教養部講師
1987年 大阪大学法学部助教授
1992年 大阪大学法学部教授
1996年 名古屋大学法学部教授・大阪大学法学部教授 (併任)
1997年 名古屋大学法学部教授
2005年 明治学院大学法科大学院(法務職研究科)教授
2014年 明治学院大学法学部教授(2017年まで)
2015年 明治学院大学「法と経営学研究科」委員長(2017年まで)
2008年2月 名古屋大学名誉教授 現在に至る